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東京地方裁判所 昭和48年(特わ)1030号 判決 1977年3月31日

本籍

東京都港区南青山四丁目一〇八番地

住居

同都目黒区緑ケ丘二丁目一番一三号

会社役員

東郷民安

大正五年五月一日生

右の者に対する所得税法違反被告事件につき、当裁判所は検察官神宮寿雄出席のうえ審理し、次のとおり判決する。

主文

被告人は無罪

理由

(公訴事実及び争いのある点)

本件公訴事実の要旨は

被告人は、殖産住宅相互株式会社(以下殖産住宅と略す)の代表取締役として同社の業務を主宰するかたわら、個人で営利を目的とした有価証券の売買を継続的に行ない多額の所得を得ていたものであるが、自己の所得税を免れようと企て、右売買を他人名義で行なうなどして所得を秘匿したうえ昭和四七年分の実際の総所得金額が三九億七、一二一万五、五八四円あったのにかかろらず、昭和四八年三月一四日東京都目黒区中目黒五丁目二七番一六号所在の所轄目黒税務所において同税務署長に対し、その所得金額が七、二三三万四五〇円で、これに対する所得税額は、右所得に対する源泉徴収税額を控除する六八三万五、三〇〇円である旨の虚偽の所得税確定申告書を提出し、もって不正の行為により同年分の正規の所得税額二九億二、九一四万二、五〇〇円と右申告税額との差額二九億二、二三〇万七、二〇〇円を免れたものである。

というのであるところ、右のほ脱所得額は、検察官の冒頭陳述によれば、有価証券の譲渡による雑所得三八億九、二一三万三、二五九円と株式配当収入のうち申告脱漏による配当所得六七五万一、八七五円の合計額三八億九、八八八万五、一三四円であるという。そして検察官は、右の有価証券の譲渡による雑所得についてそれが非課税所得には該らず課税の対象となるものである根拠として被告人が昭和四七年中になした株式の売買の回数及び株数は、別紙新日本証券(株)における売買回数調査表、同野村証券(株)における売買回数調査表、同大和証券(株)における売買回数調査表、同日興証券(株)における売買調査表、同相対売買の回数調査表記載のとおりであるほか堀場敏弘名義による殖産住宅株一万株の売却の一回分を加えたとおりであり、売買の回数は合計一四五回、その株数の合計は二、二一一万四、四九二株であるから所得税法九条一項一一号イ、同法施行令二六条一項、二項により課税の対象となることは明らかである旨主張する。

これに対し、弁護人は、検察官が被告人の株式売買取引と主張するものの多くは殖産住宅相互株式会社の行為であるなどのため被告人の昭和四七年中になした株式の売買の回数は右堀場名義の売却を含めても三〇回にすぎないから同年中における被告人の有価証券の譲渡による所得は非課税所得というべく、他人名義による配当所得の申告脱漏といわれるものも、それら配当の原因となる株式が被告人には帰属しないものであり、結局配当所得の申告脱漏分もないから、被告人の昭和四七年分における課税の対象となる実際の総所得金額は被告人が法定期限内に申告した昭和四七年分の所得税確定申告書記載のとおりのものであり、他にほ脱所得はないから、被告人は本件公訴事実につき無罪である旨主張する。

ところで、検察官が被告人の昭和四七年中になした株式の売買の回数及び株数についてはその回数の数え方の点において、検察官弁護人の間に若干の見解の相違はあるけれども、その取引の主体及至帰属の点を除いて前記別紙の各売買回数調査表のとおりの株式の売買取引が存在することについては争いはないのである。

そして争いのある点は、

(1)  新日本証券から買戻した殖産住宅の株式(以下殖産住宅株と略す)五六万株の売買(別紙新日本証券の売買回数調査表番号26、33乃至35)、

(2)  殖産住宅が上場するに際して発行した増資新株一〇〇万株の売買(別紙野村証券の売買回数調査表番号60乃至69、79、81、82、103乃至109)、

(3)  同じく増資新株二九万株の売買(別紙野村証券の売買回数調査表番号4乃至59、70、71、74乃至78、80、83乃至102、110乃至123及び別紙相対売買の回数調査表番号4乃至58)、

(4)  妻美代子名義での山九運輸、日本電装株の売買(別紙新日本証券の売買回数調査表番号25、28、29、31、32)、

(5)  保坂名義での殖産住宅株の売買(別紙新日本証券の売買回数調査表番号36乃至47、67)、

(6)  上和田、高富名義での雑株などの売買(別紙新日本証券の売買回数調査表番号48乃至51、62、64乃至68乃至94)、

(7)  被告人名義での殖産住宅株の売買(別紙新日本証券の売買回数調査表番号52乃至58、63)、

(8)  家族名義の殖産住宅株の売買及び配当収入(別紙新日本証券の売買回数調査表番号59乃至61、野村証券の売買回数調査表番号125、126)、

(9)  高梨康司、和田某との殖産住宅株の売買(別紙相対売買の回数調査表番号59乃至61)、

(10)  川原要作との殖産住宅株の売買(別紙相対売買の回数調査表番号1)、

(11)  渡辺光市郎、松井興太郎、猪熊一彦名義の殖産住宅株に対する配当収入が、いずれも被告人の売買行為でありその所得に帰属するか否かの点である。

当裁判所は、右争いのある点について検討の結果、ほ脱所得のうち雑所得をいう点は検察官主張の被告人の昭和四七年中における株式の売買回数一四五回のうち、後記のとおり検察官主張の方法によっても、その売買回数は合計三四回にすぎず、これら三四回の株式売買を含めた有価証券の売買取引が所得税法九条一項一一号イ、同法施行令二六条一項にいう、「営利を目的とした継続的行為と認められる取引」であると認める証拠はないから、結局、被告人の昭和四七年中の有価証券の譲渡による所得を課税所得ということはできず、配当所得をいう点についても検察官主張のほ脱所得乃至ほ脱の犯意があったことを認めることができないので、結局公訴事実について犯罪の証明がないことに帰すると判断するものである。以下争いのある点に対する判断を順次示すこととする。

(争いのある点に対する判断)

争いのある点に対する検討をなす前提として被告人の経歴、家族関係、殖産住宅相互株式会社とその関連会社の概況について摘示すると次のとおりである。

一  被告人の本件起訴当時までの経歴および家族関係

被告人は本籍地である東京都港区青山四丁目一〇八番地生まれ、青南尋常小学校、麻布中学校、静岡高等学校を経て昭和一四年四月東京帝国大学経済学部経済学科に入り、同一六年一二月同大学を卒業し、間もなく兵役に服し、終戦とともに復員、同二〇年一一月妻美代子と結婚し同女の父保坂清の経営する運送業を手伝っていたが、同二二年四月建築資材の販売を目的とする東和建材株式会社を設立してその代表取締役社長となった。

昭和二五年七月二五日新たに植産住宅を設立し、その代表取締役社長となり、同四八年五月二八日までその職にあったが、以後取締役会長となり、同年六月二五日会長を辞し取締役となった。ほかに昭和二三年五月二八日創立以来同四八年五月三〇日まで殖産土地相互株式会社(以下「殖産土地」と略称する)の代表取締役社長を勤め、昭和四四年七月一九日創立以来殖産興業株式会社(以下「殖産興業」と略称する)の代表取締役社長である。

被告人の家族には、妻美代子(大正一四年五月一八日生)および長男和民(昭和二一年九月一五日生)、長女恵美子(昭和二三年一〇月四日生)、次男昌和(昭和二七年四月二九日生)の二男一女がある。

二  殖産住宅相互株式会社とその関連会社の概要

殖産住宅は、被告人および藤井護、衣笠元治の三名が中心となって創立したもので、藤井は創立以来昭和四八年一一月五日まで、衣笠は創立以来同年五月二八日までともに代表取締役専務であった。同社は、本店を東京都中央区銀座一丁目九番五号に、支店を全国三九カ所に置き住宅、店舗、その他の建築物の積立式割賦販売とこれに付随する諸業務を営業目的とし、その資本金は当初二〇〇万円であったが、業積の伸長に伴って増資を重ね、昭和四〇年五月には三億円、同四二年五月六億三七五万円、同四三年一二月一六億円、同四六年九月二二億円、同年十月二五億三〇〇〇万円、同四七年一〇月一日三〇億円となり、同月二日株式を東京証券取引所第二部に新規上場、同四八年四月一日資本金三九億となった。本件当時の主な役員は、被告人および藤井、衣笠のほかに常務取締役渋谷輝之(総務・財務担当)、同西原恭三(人事・勤労担当)、同森谷忠作(営業担当)らであった。

殖産土地は、本店は、渋谷区代々木二丁目一一番地に置き、不動産の売買、交換、賃貸、造営及びこれらの仲介並びに造成、管理鑑定の受託等を目的とし、資本金は五億円で、株式の大半は殖産住宅が保有し、役員も殖産住宅と共通であった。また、殖産興業は、本店を東京都新宿区三光町一番地に置き、殖産住宅株の上場前においては、同社の株式を有している社員や指定建設業者から同社株式を担保にとって融資をし、あるいはこれを買取るなどの業務を行なっており、資本金は一〇〇〇万円で、その役員は殖産住宅の役員とほぼ共通である。

第一殖産住宅株五六万株について

検察官は、殖産住宅株五六万株の売買は被告人の取引であり、従ってこの売買益は被告人に帰属する旨主張し、被告人及び弁護人は、右売買は被告人が殖産住宅の社長として会社のために行った取引であるから、右売買益は同社に帰属し、被告人の所得ではないと争うので、この点について判断する。

一 証人渋谷輝之(第四、第五回)、同西原恭三(第一〇回)、同大石巖(第一二回)、同榎本辰男(第一四、第一五回)、同西端勝美(第二二、第二三回)、同海野幸雄(第七、第八回)、同森敏郎(第一一回)の各公判調書中の供述部分、榎本辰男の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月二七日付)、被告人の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月二〇日付のうち一九枚のもの)被告人に対する弁護人の尋問調書(第一冊)、上西明作成の捜査報告書、西端勝美作成の上申書、被告人作成の預金担保差入証三通の与(いずれも昭和四七年七月二四日付)、被告人及び東郷美代子作成の預金担保差入証写、手形貸付元帳写、押収してある殖産興業持株処分案一袋(昭和四九年押第二〇三号の5)、金銭出納帳一冊(同押号14)、顧客勘定元帳(東郷民安六枚)一袋(同押号の18)、商品有価証券元帳一冊(同押号の28)、覚書等一袋(同押号の31)によれば、殖産住宅においては株式の第二部上場に関して主幹事証券会社の野村証券の指導により、子会社殖産興業が保有する殖産住宅株八二万一八九株を処分し、同社を休眠会社とすることとなったが、右株の処分に関して被告人は株式上場に関する企画、立案を一任されていた総務及び財務担当の常務取締役である渋谷輝之、株式担当の総務部次長である榎本辰男にも予め相談することなく、昭和四七年四月中旬ころ旧制静岡高校の後輩にあたる新日本証券の大石巖専務に相談して、右殖産住宅株八二万一八九株のうち五六万株を一旦新日本証券に売渡した後、これを同額で買戻すことにしたが、(買戻しの主体が誰であったかは別として)、同年四月二四日に開催された取締役会において殖産興業保有の殖産住宅株の処分案を審議する際、右五六万株については既に買戻しの話が決められていたにもかかわらず、「新日本証券への割当は、同証券が副幹事会社としていろいろ面倒をみてもらうためのものである。」旨説明して、右処分案の承認を得たこと、その後の五月二五日ころ新日本証券と殖産住宅との間で右五六万株について殖産住宅が指定する先に売渡す旨の覚書を作成したが、新日本証券の引受部班長の森敏郎においては、右覚書案を作成するにあたって、当初は右取引の相手方として被告人個入の住所、氏名を書いたこともあったが、最終的には、新日本証券が殖産住宅の指定する先に売渡す旨の条項を入れるに至ったこと、右五六万株を買戻す代金については、被告人において渋谷と相談することなく、七月二四日に三井銀行銀座支店から被告人及びその妻美代子名義の預金を担保に二億七〇〇〇万円を借入れて一旦同支店の被告人の普通預金口座に入金したうえ、同日新本証券に右代金として二億六九四七万二〇〇〇円を送金したこと、右五六万株のうち三万株は九月一四日に大石の要請によって公開価格である一株一、二五〇円で新日本証券に売却され、代金三七四四万三七五〇円は被告人の右三井銀行銀座支店普通預金口座に入金されたが、右売却についても渋谷に相談していないこと、一〇月二日の上場に際して残り五三万株は値付株として売却されたが、一〇月一九日に右売却代金一三億六〇五二万五九〇〇円のうち二億五〇〇〇万円が被告人の普通預金口座に送金され、残金については新日本証券の被告人名義の口座に入金されたうえ殖産住宅株、六分半利国債などの売買の資金として利用されていること、新日本証券においては、右五六万株の売却、三万株の買受、五三万株の売却について、被告人名義の取引口座を使用していること、一〇月一一日の常務会において殖産住宅役員保有の殖産土地の株を放出したことに対する差額補償がなされたが(詳細については後に説明する)、右資金の支出についても被告人は渋谷に相談しなかったことが認められ、右事実からすると、一見右五六万株の売買は被告人の取引であるかのように推認することもできないではない。

二 しかし次のような理由から、右五六万株の売買が被告人の取引であるとすることには疑問がある。

1 差額補償の合意について

証人渋谷輝之(第四、第五回)、同西原恭三(第一〇四回)、同榎本辰男(第一四、第一五回)、同西端勝美(第二二、第二三回)、同山崎博信(第二四回)、同大石巖(第一二回)の各公判調書中の供述部分、榎本辰男の検察官に対する供述調書(昭和四八年七月五日付)、被告人の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月二〇日のうち一九枚のもの)、弁護人の被告人に対する尋問調書(第一冊)、西端勝美作成の上申書によれば、殖産住宅が株式を上場するに際して幹事証券の野村証券から右上場の条件を充たすために殖産住宅の役員が保有する殖産土地株及び殖産興業保有の殖産住宅株を他に処分するようにとの指導がなされ、昭和四七年三月三日の殖産住宅、殖産興業の三社合同の常務会において<1>役員保有の殖産土地株を殖産住宅へ譲渡し、その価格は証券会社に委託した評価による、<2>殖産興業保有の殖産住宅株は、社員の持株会分を除いて処分する。役員保有の殖産土地株を殖産住宅へ譲渡した資金で、殖産興業保有の殖産住宅株を消去する旨の決議がなされたが、同月一三日の三社合同の常務会において<1>役員保有の殖産土地株を一般社員や指定建設業者が殖産興業に売却するいわゆる社内価格といわれている一株一五〇円で殖産住宅が買取るが、形としては三和、三井銀行を経由して行う、<2>殖産興業保有の殖産住宅株を社員の持株会分以外は殖産土地が買取る旨の決議がなされたこと、右の如く役員保有の殖産土地株を一株一五〇円と決議するについては先の常務会で殖産土地株の売却価格は証券会社の評価による旨決められており、その評価額が一株二七〇円乃至二八〇円位であったし、また役員の本件殖産土地株の放出は、一般の社員や指定建設業者がその自らの都合により殖産土地株を殖産興業に担保に入れ又は売却して金策する場合と異なり、役員が会社株式を上場するために己むを得ず放出しなければならなくなったことなどの理由から、役員の西原、森谷の両取締役から一株一五〇円では安すぎる旨の強硬な反対意見が述べられたが、殖産住宅の社長である被告人は右一五〇円が殖産住宅の社員や指定建設業者の持株を殖産興業が買ったりする際の社内価格であって、本件役員らの殖産土地株の放出が右社員、業者らの売却とはその事情を異するとはいえ、右価格以上で殖産土地株を殖産住宅が買取ったことが明るみに出た場合の社員などの反発をおそれて一株一五〇円と決めたいと主張して常務会は粉糾したが、結局被告人において「差額については前向きで検討しょう」ないし「善処する」という趣旨の発言をなしたため、右役員らは納得して右決議がなされるに至ったこと、そのため被告人は、何らかの方法で右殖産土地株を廉価で放出させたことに対する差額補償金を捻出しょうと考慮することとなり、その後野村証券の指導によって殖産興業保有の殖産住宅株について持株会分を除いて殖産土地が買取る案も相当でなく、持株会分以外は第三者に処分せざるを得ないこととなった四月中旬ころ、新日本証券の大石専務と相談したうえ同証券に殖産興業保有の殖産住宅株五六万株を一旦譲渡するがそれを再び同一価格で買戻して株式公開時に売却し、その資金を捻出することに決めたこと、上場後の一〇月一〇日に被告人は榎本に指示して前記のとおり役員が放出した殖産土地株数の明細書を作らせたうえ、三井銀行銀座支店の山崎博信に通知させて、翌一一日の常務会において、「殖産土地株を一五〇円で殖産住宅に売ってもらって、損をさせた分の補償である。株の操作によって得られたお金である。」旨説明して殖産土地株を放出した役員に対し(被告人を含めて)、一株一〇〇円の割合で合計四億三四五九万八六〇〇円を配分したが、(右差額補償金は後記一二〇万株の売却代金の中から支払がなされているが)、その際同席していた富田取締役には、同人が殖産土地株を放出しなかったため配分がなされなかったし、しかも出席役員の中から右差額補償金の出所などについて質問はなされず、当然のこととして受領されたこと、役員の渋谷輝之、西原恭三、西端勝美らは右差額補償金を被告人が本件所得税法違反被疑事件により逮捕された後になって、当時の前田社長に預けたことが認められる。以上のような役員保有の殖産土地株処分についての三月一三日の常務会における価格決定に至る経過、差額補償がなされた時期(一〇月二日の上場後間もなくである)、差額補償金の配分割合、配分の相手方、役員から配分の資金の出所などについての質問がなかったこと、被告人が本件所得税法違反被疑事件により逮捕されるに至って、役員の渋谷、西原、西端らから右差額補償金が当時の前田社長に預けられるに至ったことなどの事情を綜合考慮すると、被告人は、三月一三日の常務会において、殖産住宅の社長として、その時期、金額などの点は明確にされたとはいえないけれども、(むしろこの段階においては、被告人は右資金捻出の方法などについて、明確な考えをもっていなかったのであるから、当然のことではあるが)、然るべき時期において殖産土地株放出による役員の損失を補償する旨を約しておいたものというべきであり、しかも役員保有の殖産土地株を一株一五〇円という廉価で取得するのは殖産住宅であって、その利益も同社に帰属するのであるから、これについて被告人個人が右差額補償をしなければならない理由は見当らないし、右の如き差額補償金の性質からすれば、その資金は本来会社の正規の経理手続から支出できるものではないことは役員らにおいても当然に熟知していたものと考えられることも併せて考慮すれば、被告人において右約束を履行するためには、いきおい会社の簿外資金を作り、そこから支払わなければならなくなるのは理の当然であって、右常務会において被告人が何らかの方法で簿外資金を作るであろうことについて暗黙の了解があったものと推認することも、あながち不合理なものとは言えない。

一〇月一一日になされた差額補償金の配分について、証人渋谷輝之は「受取る理由はわからなかった、おお金の出所はわからなかった」旨(第四、第五回公判調書中の同証人の供述部分)、同西端勝美は「当時被告人からもらったと思った、わけもわからず受取った」旨(第二二、第二三回公判調書中の同証人の供述部分)の各証言は相手の社会的地位を有する者の認識としては理解し難く、また証人西原恭三の証言(第一〇回公判調書中の同証人の供述部分)などに照らしても、とうてい措信できない。

なお検察官は、右五六万株の操作が殖産住宅の簿外資金作りのためのものであるならば、昭和四七年四月中旬ころにおいては、被告人と新日本証券の大石専務との間において右五六万株について買戻しの約束ができていたのであるから、同月二四日開催された取締役会において被告人は態々「殖産興業保有の殖産住宅株中五六万株を安定株主になってもらうために副幹事会社である新日本証券に一株四七九円で売ることにする」などと事実に反する提案をする必要はなく真相を提案できた筈であるし、右株式を公開上場日に売却したのちである同年一〇月一一日に差額補償と称して役員に合計四億三、四五九万八、六〇〇円を配るに際しても、その利益が出た経緯、内訳を明確に報告できる筈であるし、簿外資金の保管についても別の預金口座を設定するとか、財務の責任者等に保管させるなどするのが常識であるのにこれらをしなかったのは被告人の個人として秘かに資金を蓄えようとしたことを物語るものである旨主張するが、本来簿外資金といったものはその性質上会社の役員会においても公然と報告されるものではなく、その存在についてもすべての役員に明らかにされなければならないものではないと言うことができるし、またその後の資金の保管取扱いにおいて被告人の個人名義の預金口座に入金していた点で、軽卒の誹りは免れないとしても、同預金口座の入出金はすべて殖産住宅の秘書室長である陽真也において把握し金銭出納帳に記帳していた事情にあり、これら株式の売却益による資金の動きも容易に知りうることに鑑み、被告人が右五六万株の操作による資金を秘かに蓄えていたということもできない。

2 裏金作りの必要性

証人西原恭三(第一〇回)、同榎本辰男(第一五回)の各公判調書中の供述部分、弁護人の被告人に対する尋問調書(第一冊)によれば、昭和四七年四月ころの役員会の席上で、浦上財務部長、森谷常務から株式公開の機会に簿外資金を作り株主総会対策、労務対策に用いる必要性についての話が出たことが認められる。この点について証人渋谷輝之、同加藤克也は殖産住宅においては裏金の必要はなかったし、また役員会でそういう話は出ていない旨証言(第四回公判調書中の証人渋谷輝之の供述部分、第二四回公判調書中の証人加藤克也の供述部分)しているが、それは建前論をいうものと解せられるのであって、一般的に新聞等に報せられる株主総会等における総会対策の存在等に照らしてにわかに措信できない。

3 右五六万株の操作に渋谷、榎本を関与させたことについて証人渋谷輝之(第四回)、同海野幸雄(第七、第八回)、同森敏郎(第一一回)、同榎本辰男(第一四、第一五回)、同陽真也(第二〇回)、同山崎博信(第二四回)の各公判調書中の供述部分、榎本辰男の検察官に対する供述書(昭和四八年六月二七日付)、海野幸雄の検察官に対する供述書(昭和四八年六月一五日付)、被告人の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月二四日付)、弁護人の被告人に対する尋問調書(第一冊)によれば、被告人は、右五六万株について新日本証券の大石専務と間で買戻しの話を決めた後に、渋谷に対して「新日本証券へ売却する殖産住宅株五六万株は同値で買戻すことになっているので、自分の留守中新日本証券から話があったら然るべく処理してほしい」旨依頼して昭和四七年五月四日から同月二八日まで世界不動産会議に出席のためヨーロッパ旅行をなし、その不在中に大石の指示を受けた新日本証券の森において覚書案を作成して部下の海野幸雄をして榎本との間で折衝させ、その間榎本は渋谷に報告してその了解を求めたうえ、五月二五日ころ新日本証券からは森、海野の両名が、殖産住宅からは渋谷、榎本の両名がそれぞれ関与して前記覚書に調印し、その後榎本において右覚書を会社の株式部ロッカーに保管したうえ、被告人には帰国後渋谷と相談のうえ覚書を作成した旨報告したこと、榎本は、七月二〇日ころ右五六万株を新日本証券から買戻すに際してその株券の受渡しに関与し、その後うち三万株を同証券の大石に譲渡する際にも同様に関与し、その後の残り五三万株は九月一一日から同月二五日まで被告人名義で三井銀行銀座支店に保護預りされていた以外は、一〇月二日の上場日に売却されるまで、会社の貸金庫に保管していたし、右五六万株の買戻し資金を被告人が三井銀行銀座支店から借入れるについても、その事務的手続に関与していたこと、被告人、渋谷、榎本の間で右五三万株が上場日に値付株として放出されることが決められたことが認められる。

ところが、被告人が右五六万株の操作によって秘かに個人的に利益を得ようとするものならば、五六万株の買戻しとその売却につき新日本証券の大石専務との間で秘かに処理をすればよいと考えられるにも拘らず、右認定のとおり被告人の海外出張中において密約ともいうべき覚書作成といった処理を半ば公然と榎本、渋谷といった会社の職制の者にさせているのは極めて不可解といえるし、仮に榎本、渋谷の両名が被告人にとっていわば腹心の部下であって同人らを右五六万株の操作に関与させてもその秘密が曝露されない間柄であるというならば右五六万株の操作による転売益は約一一億三〇〇〇万円「1250円-479)×3万株+(2580円-479円)×53万株-手数料・取引税・利息」という莫大な利益であったから、右榎本、渋谷らにいくらかの分け前を与えることも予想されるのに、そのような分け前を与えたような事情は全く認められないし、他の役員への発覚をおそれて口止めするといった措置を講じたというような状況も認められないのであり、ましてや被告人が検察官に対して供述しているように「右五六万株の操作によって、反対派役員を会社から排除するための資金を作り出す意図も含まれていた。」(同人の検察官に対する昭和四八年六月二四日付供述調書など)とすれば、なおさらその露見を防ぐ必要が大きいのに、そのような措置をとった形跡はないことからすれば、被告人が秘かに個人的利益をはかる目的を有しながら、右五六万株の操作に渋谷、榎本らの会社職制の者を公然と関与させていたことを合理的に説明することは困難であるというべきであって、むしろ被告人としては右操作が会社内部において知られても困らないからこそ、換言すれば前記のとおり役員らの黙示の了承があったからこそ(具体的に五六万株の操作を知っていたか否かは別として)、しかるべき地位にある渋谷、榎本を右操作に関与させたものであると言うべきである。

右五六万株操作について、証人渋谷輝之は何ら積極的に関与しなかった如く供述しているが(第四、第五回公判調書中の同証人の供述部分)、その供述は殊更に自らの責任を回避しょうとする趣意が全体的に窺えるのであって、にわかに措信できない。

なお検察官は、新日本証券の森は右覚書を作成するにあたって、当初は取引当事者として被告人個人の住所、氏名を書いたが、それでは文章としてよくない等の配慮から殖産住宅に変え、新日本証券は殖産住宅の指定する先へ売渡す旨の文言を入れることにより、売渡し先が被告人個人であることにしたものであり、従ってその後の五六万株の買戻し、新日本証券への三万株の売却及び一〇月二日上場日における五三万株の売却について、新日本証券では被告人の取引口座を使っている旨主張するが、前記のとおり新日本証券の森において覚書案の作成にあたって当初は被告人の住所、氏名を書いたこともあったが、その後当事者を殖産住宅として売渡先指定条項を付けるに至ったという経緯はあるけれども、その後同人らは殖産住宅のしかるべき地位にあった渋谷、榎本を交渉相手として右覚書を作成したことから考えると、右趣旨は森らにおいて売渡し先が明確でなかったために、五六万株の処理については殖産住宅にまかせるためのものであったと解することもできるのであるし、また五六万株の買戻しの主体が真実殖産住宅であったとしても、同社がその名においてこれを取得することは商法上の自己株式取得の禁止の条文(同法二一〇条)に明らかに低触するために、新日本証券において殖産住宅の社長である被告人の取引口座を用いて五六万株の買戻し、売却が行われたとしても、そのこと自体格別不自然と言えないのである。

4 被告人と大石との会談における被告人の態度

第一二回公判調書中の大石巖の供述部分、弁護人に対する尋問調書(第一冊)によれば、大石は、被告人から右五六万株の操作について相談があった際、逆に被告人に対し新日本証券へ右株式を売却してくれてはどうかと申向けたのに対して被告人は「株式を公開した後も会社はいろいろ荒い世間の波風にさらされることになろう、非常に危い場面にも遭遇しょうし、この資金が会社を守る力になる」旨説明して、これを断ったことが認められるのであって、被告人は大石に対して右五六万株の操作が殖産住宅のためのものであり、会社の簿外資金作りであることを明確に表明しているのである。

5 以上のとおりであるから、右五六万株の売買について被告人の検察官に対する「このように株の公開の際に、私は莫大な利益を得た訳ですが、役員の人達の了解を得た訳でもなく、また新日本証券から買戻資金も私個人の借入金で支払っておりますので、その利益は私個人の所得に間違いありません」(被告人の検察官に対する昭和四八年六月二〇日供述調書のうち一九枚のもの)、「以上のような経緯で私は五六万株の操作をやった訳ですが、当時としては殖産住宅の株の時価はせいぜい一、〇〇〇円位と考えておりました、ですから一株四七九円で買戻してそれを公開時に売却しても、せいぜい二億八、〇〇〇万円位の儲けにしかならない訳であり、私としてはこのうち半分位は殖産土地の株の補償に廻し、半分位はすでに述べた反対派を排除する運動資金にするつもりでおりました」(被告人の検察官に対する昭和四八年六月二四日付供述調書)、「新日本証券から五六万株を買戻して金を作りたい本当の理由は、反対派の人達を会社から追いだすための資金作りが主たる目的であった」(被告人の検察官に対する昭和四八年六月二五日付供述調書)旨の各供述は被告人が逮捕勾留された際の勾留質問に答えて「私のしたことは社長として会社のために会社としてしたことであり、個人の行為ではない。したがって所得税法違反容疑ということだが会社のための資金であって、私は個人として一銭も消費していない」と弁解したがその後の検察官の厳しい取調べと既に逮捕されている陽真也、海野幸雄、榎本辰男らの早期釈放を願う気持ちから検察官に迎合して述べたものである旨の被告人の弁明(弁護人の被告人に対する尋問調書第七冊)に照らしてにわかに措信し難く、また同人の「右五六万株を操作して差額補償をなし、なお余りがあれば、これを会社の乗取りなどから会社を防衛するための資金を作ろうと考えた」旨の弁解(弁護人の被告人に対する尋問調書第一冊)をあながち不合理だと排斤することはできないから、右五六万株の売買を被告人の取引であると断定するには相当の疑問が残るものと言わなければならない。

第二殖産住宅株一〇〇万株について

検察官は、殖産住宅株一〇〇万株の売買は被告人の取引であり、従って、その売買益は被告人の所得に帰属する旨主張し、被告人及び弁護人は被告人の所得ではないと争うので、この点について判断する。

一 証人大石巖(第一二回)、同榎本辰男(第一四回)、同山崎博信(第二三、第二四回)の各公判調書中の供述部分、証人大森康彦の当公判廷における供述、北裏喜一郎の検察官に対する供述調書、榎本辰男の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月二一日付)、弁護人の被告人に対する尋問調書(第二冊)、上西明作の捜査報告書、申請書写(発送日昭和四九年九月一四日付のもの)、被告人名義の出金伝票写、榎本辰男名義の当座勘定入金伝票写、小切手写二通、預金口座振込依頼書写、支払伝票写、手形貸付元帳写、三井銀行銀座支店作成の捜査回答書(昭和四八年六月二日付)、押収してある正論新聞その他と題する袋在中書類一袋(昭和四九年押第二〇三号の12の7)金銭出納帳一冊(同押号の14)、顧客勘定元帳(ホサカキヨシ二枚)一袋(同押号の22)、同(カミワダヨシロウ二枚)一袋(同押号の23)、同(タカトミミツオ二枚)、一袋(同押号の24)メモ二枚(同押号の52)によれば、被告人は旧制静岡高校の同級生であった代議士の中曽根康弘から「総裁選に出馬するためには二五億円位必要になると思うので、殖産住宅の株の公開の機会を利用させてほしい」旨の依頼を受けていたところ、殖産住宅が上場するに際して増資新株九四〇万株を発行することになっていたことから同人の希望をかなえてやろうと考え、昭和四七年八月二〇日ころ新日本証券の大石専務に「中曽根を助けてやりたいので何とか方法はないだろうか」と相談したところ、同人から主幹事会社である野村証券に相談すればいい旨示唆されたため、同月二三日に野村証券の北裏社長に会って右趣旨のことを依頼し、その後同証券の企業部長大森康彦らの指導によって殖産住宅の取引先一〇社(別紙野村証券の売買回数調査表番号60乃至69の名義)を選定して、その名義で右増資新株のうち一〇〇万株を引受けることになったこと、右一〇〇万株の新株引受け代金については九月二二日後記二九万株の資金を含めて被告人が三井銀行銀座支店から右株式担保の約束で一六億一〇〇〇万円を借り受けて、一旦同銀行の被告人の普通預金口座に入金したうえ、同銀行の榎本辰男の預金口座を経由して野村証券に送金されていること、一〇月二日の上場日に右一二九万株は植付株として放出され、右売却代金のうち一三億四五〇万円は一〇月五日に被告人の右普通預金口座へ入金され、残り一七億七五〇〇万円は同日被告人の三井銀行銀座支店から前記五六万株及び右一二九万株の借入金返済にあてられ、その後右預金から一〇月一一日に前記差額補償金として四億三四五九万八六〇〇円を殖産住宅の役員に配分し、一〇月六日には社内の誰とも相談せずに、中曽根との話合いで五億円を同人の秘書である上和田義彦名義で三井銀行銀座支店の普通預金口座に預金し、殖産住宅の秘書室長である陽真也において右通帳と印鑑を保管していたところ、一一月一八日号の週刊新潮に「絶対騰る要素がないのに騰っている黒い政治銘柄リスト」と題して、殖産住宅の上場にからんで一日で二五億円をP代議士が儲けた旨の記事が掲載されたことから、被告人は中曽根との話合いのうえ、同人との話は白紙にもどすこととし、その後預金を解約して被告人の普通預金口座にもどしたこと、右売買益が新日本証券において殖産住宅株などの売買資金として使われていることが認められ、これらの事実から判断すると右一〇〇万株の売買はあたかも被告人個人の取引であるかの如く推認できないではない。

二 しかし次のような理由から右一〇〇万株の売買を被告人の取引であるとするには相当の疑問がある。

1 一〇〇万株操作の目的について

榎本辰男の検察官に対する供述調書(昭和四八年七月二日付のうち一九枚のもの)、被告人の検察官に対する供述調書二通(昭和四八年六月一八日付、七月二日付のうち七枚のもの)、被告人の当公判廷における供述によれば、被告人は昭和四七年三月九日ころ赤坂の料亭「一条」において、中曽根から「ある人が金を用意してくれるというんだけれども、お前の会社が株を公開する時に公開値と寄付値との差額で相当儲けることができるという話だそうだな、本当にそんなことが出来るのか」という話があり、その後同人に会った際「将来総裁選に出るには二五億円いると思う、株の公開の際はこの前話した方法で倍位儲かるそうだな、方々の株の公開の際にそうやって政治資金を作っているらしい、丁度二五億円を出してくれる人がいるので、一つなんとかやってみてくれないか」という依頼を受けたため、同人が旧制静岡高校の同級生であったことなどもあって、その希望をかなえてやろうと考えて、前記のとおり、八月二三日にその相談を野村証券の北裏社長にもちかけ、その後同証券の大森らの指導によって一〇〇万株を殖産住宅の関連会社一〇社名義で引受けた形をとることによって操作することとなったが、その際野村証券から右一〇社の税金も負担するようにした方がいい旨の助言がなされたこと、ところが八月末ころに至って、中曽根から二五億の資金を出してくれるのは、戸栗亨という男の口ききで東京相互銀行である旨を聞き戸栗には殖産住宅株の買集めによって、殖産住宅が苦労させられていることもあって、そのような男からの口ききによる融資を断るよう中曽根に話したため、右一〇〇万株の代金は被告人が支出することになったこと、一〇月二日の上場日に右一〇〇万株を売却した利益金の中から右野村証券の助言にもとづいて増資新株引受名義を借用した一〇社の税金相当分と謝礼相当分を概算で差引いて、五億円を中曽根の秘書である上和田義彦名義で預金したことが認められる。

以上の事実からすれば右一〇〇万株の操作の目的はあくまでも中曽根の依頼にもとずき、同人の政治資金作りに協力するというものであり、しかも八月末頃被告人が中曽根から戸栗の話を打明けられて、これを断ってもらいたいと申入れるまでは、中曽根が二五億の資金を用意するということを前提として話が進められていたのであるから、被告人が右一〇〇万株を一旦引受けて、その資金を中曽根が支払うというものであったとすることは常識的に考えて首肯することはできず、むしろ被告人の意思としては増資新株を中曽根に引受けてもらって、その売却による利益で政治資金を作ってもらうために増資新株の割当てをあっせんするというものであったと考えるのが素直な解釈であるということができるし(このような形であっても法人一〇社に対する税金分担の問題は同じである)、また被告人が右融資の話を断ってもらった後においても、被告人において右一〇〇万株の操作の方法について変更を加えて、自らがこれを引受けなければならない事情も、その必要性も認められないのであるから、これらの事情から判断すると、右融資を断らせた代償として右資金を用意してこれを中曽根のために立替えたのではないかとの疑いが残るのである。

2 右一〇〇万株の操作に渋谷、榎本を関与させたことについて

証人榎本辰男(第一四、第一六、第一七回)、同山崎博信(第二四回)の各公判調書中の供述部分、証人河野正、同大森康彦の当公判廷における供述、榎本辰男の検察官に対する供述調書(昭和四八年七月二日付のうち一九枚のもの)、弁護人の被告人に対する尋問調書(第二冊)、押収してあるメモ二枚(昭和四九年押第二〇三号の52)によれば、昭和四七年八月二九日ころ野村証券の豊田常務、大森康彦、河野正が殖産住宅をおとずれ、同社から被告人、渋谷、榎本が出席して右一〇〇万株の処理方法について話合いがもたれ、その際豊田から一〇〇万株の引受名義について<1>全くの架空名義を使う、<2>殖産住宅の取引関係会社の名義を使う、<3>実際に殖産住宅の関係会社に買ってもらい、利益を殖産住宅に戻してもらって、税金は殖産住宅が負担する旨の三つの案が示されたが、<1>案については色々まずいことになるおそれがある、<3>案については殖産住宅として儲けがわかってしまって具合いが悪いとの理由から、<2>案を採用し、殖産住宅の安心できる法人二〇社を選び、更に野村証券において殖産住宅との取引高、資本金等をみて信頼できる法人一〇社を選定し、その名義で引受けることとなり、その後殖産住宅の金子資材部長から法人二〇社のリストを受取った野村証券において被告人にその意向を確かめたうえ、九月一〇日ころ野村証券の大森、河野が殖産住宅をおとずれて、被告人、榎本に対して法人二〇社のうち一〇社を二枚のリストに基づいて説明し、右一〇社名義で引受けることとなったこと、その後九月二二日に榎本において三井銀行銀座支店の山崎に連絡して、後記二九万株を含んだ一二九万株の代金一六億一〇〇〇万円を借入れる手続をなし、また九月末ころ、野村証券の大森、河野と殖産住宅の被告人、渋谷、榎本との間で上場の際の値付株についての最終的打合わせの際に、右一〇〇万株も値付株として放出されることが決められたことが認められる。以上のような事実からすれば、右一〇〇万株の操作に関して野村証券としては法人一〇社が税金を負担するようなことが起った場合を含めて殖産住宅において責任をもって処理してほしいという考え方が示されていたものというべきであり(右のような操作が明るみに出た場合、野村証券の証券会社としての責任は免れないからである)、しかも前記五六万株について述べたのと同様に渋谷、榎本の両名を関与させていることからすると、右一〇〇万株の売買についても、被告人が個人的利益をはかるためのものであるとするには疑問があるものといわなければならない。

この点についての証人渋谷輝之の「自分は一〇〇万株の事務的折衝にはたずさわっていない。後に榎本から一〇〇号株が一〇月二日に売られたことを聞いた」旨の証言(第四、第五回公判調書中の同証人の供述部分)は、榎本辰男の検察官に対する供述調書(昭和四八年七月二日付のうち一九枚のもの)などに照らして、証人大森康彦の「自分は一〇〇万株については被告人以外のものとは連絡をとっていない」旨の証言(同証人の当公判廷における供述)は、同証人の証言態度に照らしていずれも信用できないし、また値付株として右一〇〇万株は予定していなかった旨の証人渋谷輝之(第四、第五回公判調書中の同証人の供述部分)、同大森康彦(同人の当公判廷における供述)、同河野正(同証人の当公判廷における供述)の各証言は、証人榎本辰男の第一四回、第一五回公判調書中の各供述部分及び昭和四七年九月上旬に殖産住宅株公開のための値付株が足りないため、殖産住宅と野村証券とはその値付株放出先をさがすため必死となっており、殖産住宅の取締役西端勝美と野村証券の河野正が西宮市に居住の元役員末亡人宅におもむき、同女に対して値付株としてその所有の殖産住宅株を放出してもらいたい旨依頼に行った事実(第二三回公判調書中の証人西端勝美の供述部分、証人河野正の当公判廷における供述)などに照らして措信できない。

3 週刊新潮の記事が掲載された後における被告人の言動

第一五、第一七回公判調書中の証人榎本辰男の供述部分、弁護人の被告人に対する尋問調書(第二冊)によれば、前記のとおり週刊新潮の記事が出たために中曽根との話を白紙にもどすこととなったが、その後の昭和四七年一一月二一日に被告人、渋谷、榎本の三名が野村証券をおとずれ、アイディアセンターの人との話合いが終ってから、同証券の大森、河野と会談した際、大森から「一〇〇万株操作による利益金はどうするのか」という質問があったのに対して、被告人は「一〇〇万株による利益金は会社のものだ、会社に緊急な場合があったときに使う金だ」と返答していることが認められる。以上の事実からすれば、被告人は中曽根との話を白紙にもどした後においても、右一〇〇万株の操作による利益を個人的に取得しようとする意思がなかったことを示しているものということができる。なんとなれば、右一〇〇万株の操作について、前記のとおり渋谷、榎本の両名を関与させているうえ、右大森らとの会談においても渋谷らが同席していたことからしても、被告人が個人的利益を計るのを隠すために虚言を弄したとはとうてい考えられないからである。そして、本件一〇〇万株の売却手取額は後記二九万株の分を併せて三井銀行銀座支店の被告人の普通預金口座にこれら一二九万株などの取得のための借入金の返済分を除いて一旦入金されたほかは後記の第五、第六で述べる如く被告人の個人的使途に費消されたとは認め難いのである。

この点について証人渋谷輝之は「上場後野村証券との間で、一〇〇万株の利益処分の話があったことは知らない」旨(第五回公判調書中の同証人の供述部分)、同大森康彦は「アイデアセンターに被告人は来ていないし、一〇〇万株の話も出ていない」旨(同証人の当公判廷における供述)それぞれ証言しているが、同証人らの証言態度及び特に証人大森については、右一〇〇万株の操作に野村証券が深くかかわりをもっていたことからすると、週刊新潮の記事が出た後は、一〇〇万株操作による利益処分の問題が最大の関心事であったと推測されるにもかかわらず、同証人は一〇〇万株の割当に関し、野村証券は単に通常の株主安定工作としての割当をしたもので他のことには関与していないとして野村証券の関与を極力避けようとする殊更な証言態度から到底措信しがたい。

4 以上のとおり一〇〇万株の操作は中曽根の資金作りのため増資新株を実質上同人に引受けさせる意図のもとになされた疑いが多分にあり、被告人がこれら一〇〇万株の操作による転売益を自己の利得に帰属せしめようとする格別の所為も認められないのであるから、被告人の検察官に対する「八月下旬ころの段階になりましたので、私も中曽根代議士が言っていたように、株の公開時に公開値と寄付値との差額で金を儲けて、それを中曽根代議士に献金し、同代議士の夢を実現してやろうという気持になった、八月末近くになって中曽根が用意する予定の二五億円が戸栗の口ききであると聞いて、それを断ってもらったが、私としては一旦約束しておきながら中曽根に準備してある二五億を断らせた以上、先程述べた一〇〇万株を野村証券から私が引受ける資金は自分が工面し、そして先程話したような操作をして公開時に儲けて、その中から政治献金をしてやる以外にないと考えたのです」(被告人の検察官に対する昭和四八年六月一八日付供述調書)、「大森部長との話合いで私自身が野村証券から親引株二四〇万株のうち一〇〇万株を適当な会社の名前を使って中曽根代議士に政治献金するということで話を進めておりました。八月末頃になって中曽根の準備しているという二五億の出所が戸栗の口ききであることがわかり、あわててそれを中曽根に断らせてしまいました。それで私としては、私が自分の金でこの一〇〇万株を野村証券から買受け、それを株の公開時に売却して金を儲け、その中から中曽根に献金してやろうと考えました」(被告人の検察官に対する昭和四八年六月二一日付の供述調書のうち八枚のもの)旨の供述は、にわかに措信することはできず、右一〇〇万株の売買について、これを被告人の取引とするには疑問があるものと言わなければならない。

第三殖産住宅株二九万株について

検察官は右二九万株の取引は被告人に帰属する旨主張し、被告人及び弁護人は被告人において右代金を立替えたにすぎず、被告人の取引ではないと争うのでこの点について判断する。

一 証人榎本辰男(第一四、第一六回)、同山崎博信(第二三、第二四回)の各公判調書中の供述部分、陽真也の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月二二日付)、榎本辰男の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月二一日付)、弁護人の被告人に対する尋問調書(第三冊)、上西明作成の捜査報告書、三井銀行銀座支店作成の捜査回答書(昭和四八年六月七日付)押収してある金銭出納帳一冊(昭和四九月押第二〇三号の14)によれば、殖産住宅においては、上場に際して増資新株を発行することになっていたが、被告人は榎本から殖産関係の親引株について未確定分二八万五〇〇〇株ある旨の相談を受けていたところ、その後更に余ることとなった五、〇〇〇株を含めた二九万株について、榎本において同窓会の名簿を利用して五八名に各五、〇〇〇株宛割当てたことにし、右代金は九月二二日に被告人が三井銀行銀座支店から前記一〇〇万株分を含めて一六億一、〇〇〇万円を借受けて、同支店の被告人の普通預金口座に一旦入金したうえ、榎本の口座を経由して野村証券に送金されていること、右二九万株のうち七万七、〇〇〇株については島村孝ほか五四名に売却し、その代金は陽真也の普通預金口座に送金され後に、右代金のうち六、〇〇〇万円は九月二二日に、三、五〇〇万円は一〇月三日にそれぞれ右借受金の返済にあてられ、残額一二五万円については被告人の右普通預金口座に入金されているし、右二九万株のうち二〇万株は一〇月二日に値付株として放出され、その代金は前記一〇〇万株のところで述べたような処理がなされ、更に一万株は上場後堀場敏弘名義で殖産住宅子会社である昇栄保有の殖産住宅株五万株とともに売却され、一〇月三一日にその代金二、三四六万八、六〇〇円が被告人の右普通口座に入金されていることが認められ、右事実からすると、右二九万株の取引は被告人に帰属すると推認することもできないではない。

二 しかし次のような理由から被告人の取引とするには疑問がある。

1 被告人が右二九万株の代金を支払うに至った経過について

証人榎本辰男(第一四、第一六回)、同陽真也(第十九、第二〇)、同山崎博信(第二三、第二四回)の各公判調書中の供述部分、小松操の検察官に対する供述調書、榎本辰男の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月二一日付)、弁護人の被告人にに対する尋問調書(第三冊)、上西明作成の捜査報告書、申請書(発送日昭和四七年九月一四日付のもの)、押収してある金銭出納帳一冊(昭和四九年押第二〇三号の14)によれば、被告人は昭和四七年九月初旬ころ榎本から殖産住宅関係の親引株のうち未確定のが二八万五、〇〇〇株ある旨の話を聞いた後に、遅くとも同月一四日までの間に三井銀行銀座支店に対して前記一〇〇万株分と本件二八万五、〇〇〇株の引受金額に相当する一六億一、〇〇〇万円の融資の申込をなしていたところその後割当のできなかった分が五、〇〇〇株増えたために、代金払込期間(九月一九日から二二日まで)の最終日の同二二日に榎本において右一六億一、〇〇〇万円の借入れ手続に関与するとともに、三井銀行銀座支店の被告人の普通預金口座から被告人に無断で右五、〇〇〇株分六二五万円を上乗せして、一六億一、二五〇万円を一旦自己の預金口座に入金したうえ、野村証券に送金したことが認められる。

以上の事実からすれば、被告人が三井銀行銀座支店に対して融資の申込をしたのは、九月一四日以前であり、その時期は親引株の代金払込期限より前であったのであるから、右二八万五、〇〇〇株についても以後割当可能であったと言うことができるから(現に後記のとおり割当がなされている)、榎本から二八万五、〇〇〇株について話があった時点においては、現実に割当が出来ない株が何株になるかは明らかでなかったものと言うべきであり、従って被告人が榎本から親引株未確定分の立替方を依頼されてこれに応じたとしても、そのことから直ちに右立替分の株式について被告人が引受けるものであったと認めることは出来ない。

2 七万七、〇〇〇株について

陽真也の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月二二日付)、島村孝、熊谷喜徳、鈴木久重、大野武子、西田源七、銀屋源之助、篠原幸宏、中村貞、山口龍雄、長谷川隆常、都志平一、太田正輔、永井協子、渋川哲三、前野徹、内橋克人、藤井賤恵、塚本多恵子、大迫仲右エ門、山崎勝彌、関谷秋夫、山田義治の検察官に対する各供述調書、保坂清の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月一三日付のうち二八枚のもの)、弁護人の被告人に対する尋問調書(第三冊)、三井銀行銀座支店作成の捜査回答書(昭和四八年六月七日付)によれば、前記二九万株のうち七万七、〇〇〇株については、一株一、二五〇円の公開価格で島村孝ほか五四名に対して売却されているが、そのうち島村孝ほか三三名合計四万八、〇〇〇株については、九月一九日から同月二二日までの代金払込期間中に、払込先に予定されていた三井銀行銀座支店の陽真也の普通預金口座に右代金が送金されており、残りの二一名についても、岡崎忠(同人一〇月二七日に代金支払)を除いて、いずれも上場前である九月二五日から同月三〇日までの間に陽の右普通預金口座に右代金が送金されていること、右割当には殖産住宅の宣伝部長、広報部長、被告人らが関与していたことが認められる。そうとすれば前記のとおり、榎本が被告人に二八万五、〇〇〇株の話をした時点では、まだ殖産住宅としては割当可能な時期にあったし、また代金の支払時期、一株当りの売却価格(もし被告人個人の売買であるとすれば、被告人は三井銀行銀座支店からの借入金の利息だけ損をすることになる)などからすれば、島村孝ほか五四名に対する売却は、親引株の割当の一環ないしはその延長線上のもので親引株の割当と同視しうるものといえるのであり、右七万七。〇〇〇株について被告人が一旦買取ったうえ、これを更に島村孝らに売却したと考えるのは余りにも形式的にすぎるものと言うべきである。

この点についての榎本の検察官に対する「九月二〇日前後頃野村証券に親引の名簿を出す際、第三者個人割当分にまだ二九万株残りがあったので、私はどうせ東郷社長が個人的に払い込みしてくれるものと思っていたので、私の友人等の名義で引受があったように取りつくろい、名簿を出した後に社長に二九万株分の引受も了解してもらいました。この東郷社長が引受けた一二九万株は払込の締切後、私が株券を保管しておりましたが、その後あらたな引受希望者が出て来て、陽が払込金を受取り、そのかわり私が保管中の株式を陽を通じて渡しました。」(榎本辰男の検察官に対する昭和四八年六月一三日付供述調書)、「ところで東郷さん個人が親引した一二九万株のうち一二〇万株は上場日に売却していることはすでにお話してあるとおりです、残り九万株は新株の払込期日後に東郷さんの知人からぜひ分けてくれと頼まれて分けてやった分が七万六、〇〇〇株あります」(榎本辰雄の検察官に対する昭和四八年七月二五日付供述調書)旨の供述、証人陽真也の「期限後に買いたいという人がいて、五五人位七万何千株か自分の口座に入金されたと思う」旨の証言(第一〇回公判調書中の同証人の供述部分)は、右認定事実と著しく矛盾する内容というべく措信できない。

3 堀場名義で売却した一万株及び値付株として売却した二〇万株について

第一四、第一六回公判調書中の証人榎本辰男の供述部分、同人の検察官に対する供述調書(昭和四八年七月二五日付)弁護人の被告人に対する尋問調書(第三冊)によれば、榎本は昭和四七年一〇月末ころ新日本証券の依頼により、被告人には相談せずに、右二九万株のうち一万株を殖産住宅の子会社である昇栄保有の殖産住宅株五万株とともに堀場敏弘名義で売却したこと、同じく二九万株のうち二〇万株については、一〇月二日の上場日に買注文が多くて容易に寄付がなかったために、榎本の咄嗟の判断によって値付株として放出したことが認められる。右事実からすれば榎本としては、右株が会社の支配下にあるものと考えていたために、被告人とは相談せずに殖産住宅の株式次長として、責任において処理したのではないかとの疑いが残る。

この点について榎本は検察官に対して「結局私共としては、値付株として合計四〇〇万株を予定していたのでありますが、もしこれでも足りないときは、既に申し上げている東郷社長の命令で別口としていた一〇〇万株と同じく増資の親引分から東郷社長が残った分として架空名義で割当を受けた二九万株のうち二〇万株を出すし、又五三万株のうちの残り三万株も出すということになったのであります。」旨供述しているけれども(同人の検察官に対する昭和四八年六月二七日付供述調書)、同人の二〇万株は上場日の咄嗟の判断で値付株として放出した旨の証言(第一六回公判調書中の同証人の供述部分)などに照らして措信できない。

4 被告人の二九万株についての意識について

大迫仲右エ門の検察官に対する供述調書によれば、前記五五名のうちの一人である大迫は、昭和四七年九月二八日ころ被告人に対して殖産住宅株を持ちたい旨依頼したところ、被告人の返事は「もうだめであろう」ということであったが、翌日陽からの連絡により三、〇〇〇株買受けることができたという。右事実からすれば被告人としても右二九万株が(被告人の認識としては二八万五、〇〇〇株であるが)、その後割当が当然なされることを前提とし、もう割当済ではないかとの認識を有していたことがうかがわれ、右態度からすれば被告人が個人で右二九万株を取得しようとする意識はなかったのではないかとの疑問が残る。

5 以上の事実からすれば被告人の検察官に対する「この議事録にありますように、この日(九月一一日)の役員会で公開値が一株一、二五〇円と決定しました、私はこの日再び静岡や関西方面に出張し、二〇日に帰京しました、翌二一日に会社に出ましたところ、榎本から親引株二四〇万株について、割当未確定分の株が合計二八万五、〇〇〇株あるので、先程の一〇〇万株のほかにもこの分も一応私が全部割当をうけて買っておいて、後に割当分が確定すれば、その方に肩替りするということで合計二八万五、〇〇〇株について、三井銀行銀座支店から借り入れをおこすことにしたいという話がありました、(中略)私は新潟に出張するに際して、この払込の件を三井銀行銀座支店の山崎博信という行員と榎本にまかせて行きましたので、一二九万株に増えたのは、おそらく払込期日の九月二二日になって割当未確定分がさらに五、〇〇〇株増え、結局一二九万株分だけ私が払込んだことになったものであります。」旨の供述(被告人の検察官に対する昭和四八年六月一八日付供述調書)は遅くとも九月一四日までに三井銀行銀座支店に融資の申込がなされていることに照して措信し難く、また同人の「二九万株の代金を被告人が支払ったのは、払込期間中に代金の支払がなければ、親引株であっても引受会社の野村証券において自由に処分することができることになってしまうために、榎本の要請によって立替えたにすぎない」旨の弁解(弁護人の被告人に対する尋問調書第三冊)をあながち不合理だと排斤することはできないというべきであり、これが公開時の売却手取額の使途については前記第二で述べたとおりであることからすれば右二九万株の取引が被告人に帰属するものとするには疑問があると言わなければならない。

第四妻美代子名義での山九運輸、日本電装株について

検察官は、被告人の妻名義でなされた山九運輸、日本電装株の売買は被告人の取引であり、その売買益は被告人に帰属する旨主張し、被告人及び弁護人は、右取引は海野が被告人や妻の承諾なしに行った取引であり、被告人はその取引の行われたことを知って妻の取引として追認したものであって、その売買益は妻に帰属すると争うのでこの点について判決する。

一 証人海野幸雄(第七、第八回)、同陽真也(第一八回)の各公判調書中の供述部分、証人東郷美代子の当公判廷における供述、上西明作成の捜査報告書、押収してある顧客勘定元帳(トウゴウミヨコ二枚)一袋(昭和四九年押第二〇三号の19)、金銭出納帳一冊(同押号14)によれば、新日本証券の海野の取扱いで被告人の妻美代子名義により、昭和四七年六月一七日に日本電装株一、〇〇〇株、八月一日に山九運輸株五万四、〇〇〇株のそれぞれ買いがなされ、右代金は三井銀行銀座支店の被告人の普通預金口座から送金されており、右送金に際して被告人が右預金払戻請求書に押印していること、八月一日に日本電装株一、〇〇〇株が、山九運輸株については同月一五日に四、〇〇〇株、同月一八日に五万株がそれぞれ売却され、その代金一、二〇二万四、九八七円は八月二二日に被告人の右普通預金口座に入金されていること、右取引について被告人の妻美代子において予め承諾を与えたものではないことが認められ、右事実からすると妻美代子名義での山九運輸、日本電装の売買は被告人の取引であること推認することもできないではない。

二 しかし、次のような理由から被告人の取引であるとするには疑問がある。

1 課税問題と妻美代子名義の使用について

検察官は被告人が妻名義で株を取引するに至った理由は、課税問題からであるかのように主張している。

なるほど検察官に対して海野は「東郷社長の株の売買は既に申しましたように、又顧客勘定元帳からも明らかなように、昭和四六年においてもかなりの数になっておりましたし、四七年に入ってからも、多数回にわたっておりました。そこで私は昭和四六年ころから東郷社長の窓口になっていた陽さんに対してその旨話をし、社長の株の取引は一回の数量が大きいですから、五〇回以上になると税金を納めなければなりませんよというような話を何回もしていたのであります、そのようなこともあった為だろうと思いますが、四七年六月か七月ころからは東郷社長の奥さん名義での株の取引も行なわれるようになりました、奥さん名義の取引をするようになったのは、陽さんの指示によるものであります。」(海野幸雄の検察官に対する昭和四八年六月一五日付供述調書)、「このようにして何回にもわたって安い株を東郷社長に公募価格で売ってあげていた訳でありますが、その当時から私は社長に対しては、ご承知でしょうが株の取引は五〇回以上になると税金を納めなければならないので、名義を分散させておいた方がいいですよというような話をしていたのでありました、このような状況であった時で、社長に安い公募価格での株を分けてあげて儲けさせてあげたときのことで、四七年五、六月ころなんかの機会に社長とお会いした際、社長は儲かったことを大そう喜んで更に私にいいものがあったらママにも分けてくれ、金はおれが出すからという話をしたのでした、社長が金を出して株の取引をする訳ですから、その取引はやはり社長の行う取引でありますが、社長としては奥さんの名義にすることによって取引名義を分散しようと思っていたのでにないかと思います。社長からそのようなことを言われていたので私はその旨を陽さんにも話し、確実に儲かる公募株が出るのを待っておりましたところ、日本電装が増資をすることになったのでした、そこで私はその旨を陽さんに話したところ、陽さんが私にそれではその日本電装株を社長の奥さんの東郷美代子名義で買ってくれ、金は社長の口座から送るからと言って買付注文をしたので、東郷美代子名義で株を買う取引が始まったのでありました」(海野幸雄の検察官に対する昭和四八年六月二一日付供述調書)旨陽は「こうして私は東郷社長の株式の取引を行ってきたのでありますが、初めは東郷民安の名義だけで取引を行っておりました、ところが、昭和四七年も六月頃になりますと、新日本証券の海野は会社に来たとき、社長や私に対し、一人で何回も株の取引をしますとその利益に税金がかかりますと言って忠告されました、つまり証券取引と税金との関係についての話があったのですが、内容が複雑で正確には覚えていませんか、一年に五〇回以上の取引をし、その金額の総計が何百万円か以上になると株の取引によって生じた儲けにも税金がかけられるという内容のものでありました。つまり一つ一つの取引については、わずかな取引税がかけられるだけだが、一年に五〇回以上で金額の総計が何百万円か以上になるとその利益には所得税がかけられるというものでありました。そして海野はその中でも特に回数に非常に注意していて、五〇回以上になると東郷さんに迷惑がかかるから、そういうことのないようにほかの人の名前を使って取引をしなければなりません。東郷さんの奥さんは働いておられることでもあるし、奥さんの名前を使われたらどうですかといいました、このような証券会社の忠告というか入れ智恵が入った為に、その後の取引は東郷民安の名前だけでなく、奥さんの東郷美代子やその子供の名前を使うようになったのです、ところが先程から申し上げておりますように、社長の取引というのは、社長からこれを買えとかあれを売れというのではなく、証券会社のすすめに従って買ったり売ったりしていただけでありましたから、右に述べたような海野の忠告があったあとは、一つ一つの取引についてはその名義人を誰にするかということは、証券会社の方で気をつけていて、今度は奥さんの名前で買っておきますなどというのであり、社長や私の方から今度取引は誰の名義にしておいてくれといったことはないのであります」(陽真也の検察官に対する昭和四八年六月一三日付供述調書)、「六月二一日に六〇万円を出金しています、これは六月一七日に東郷美代子名義で日本電装を一、〇〇〇株買われたものです、この株は公募株であったと思いますが、新日本証券の海野がこの株を買えと言って勤めに来た時に、前にも申し上げましたが、五〇回以上になると東郷さんに迷惑がかかるからそういうことがないように他の人の名前を使って取引をしなければなりません、東郷さんの奥さんは働いておられることでもあるし、奥さんの名前を使われたらどうですかと言われた為に、東郷美代子の名前で日本電装を買いましたが、これを買ったのは社長であり、その金も社長個人の口座から六〇万円出したものであります」(陽真也の検察官に対する昭和四八年六月二一日付供述調書)旨いずれも右検察官の主張にそう供述をしている。しかし、右供述相互からも明らかなように海野、陽両名において妻美代子の名義をつかうことにつき両名は責任のなすり合いをしているものと認めることが出来るし、また妻名義での取引が開始された昭和四七年六月一七日の時点においては、被告人の株の取引回数は検察官主張のとおりの売買回数であるとしてもいまだ二四回にすぎないし、被告人は元々株の取引は嫌いな方であったのであり(陽真也の検察官に対する昭和四八年六月一三日付供述調書等)、さらに回数問題から名義を使用するのであれば何故その後も取引を続けなかったのか説明できないし、しかも後記の保坂ら名義での株の取引が被告人に帰属するものであるとしても、当時その後に右のような取引がなされるようなことを予想させるような事情をうかがうことができない本件においては、妻名義での株の取引が税金を回避するためのものであったとはとうてい考えることはできず、右海野らの検察官に対する供述は措信できないものと言わなければならない。

そうとすれば右のような事実を前提として「株の取引については必ず被告人の了解を得ていた」旨の陽の検察官に対する供述(陽真也の検察官に対する昭和四八年六月一三日付、同月一六日付各供述調書)は極めて疑わしい供述というほかはない。

2 妻名義株の整理について

第一九回、第二一回公判調書中の証人陽真也の供述部分、弁護人の被告人に対する尋問調書(第一冊)、上西明作成の捜査報告書、押収してある金銭出納帳一冊(昭和四九年押第二〇三号の14)、によれば、陽は前記山九運輸株五万四、〇〇〇株の代金支払について、三井銀行銀座支店の被告人の普通預金口座の残高では不足していたため、八月四日に殖産住宅から一〇〇万円を借入れて、その支払にあてたことが八月中旬ころ被告人の知るところとなり、その際被告人は山九運輸、日本電装株が妻名義で取引されていることが判ったために、陽に注意して右取引を整理するよう直ちに指示したことが認められる。このことは妻名義の取引が被告人の知らぬまになされたものであり、そしてその妻の名義は山九運輸、日本電装株の買いと売りとだけで口座は閉鎖されたのも、それが被告人の株式売買回数を分散する為に使われたものではないことに外ならない。

3 ミラベルへの送金について

東郷美代子の当公判廷における供述、弁護人の被告人に対する尋問調書(第一冊)、上西明作成の捜査報告書、山田直人作成の東郷民安と関係会社との貸借勘定調と題する書面、押収してある金銭出納帳一冊(昭和四九年押第二〇三号の14)によれば、被告人は前記山九運輸株などの売却代金が三井銀行銀座支店の自己の普通預金口座に入金された八月二二日に陽に指示して妻美代子が代表取締役をしている有限会社ミラベルに一〇〇万円を送金したこと、ミラベルでは右一〇〇万円は被告人からの借入金として処理していることが認められる。

4 以上のような事実からすれば、被告人の検察官に対する「先程の顧客勘定元帳の写を見ますと、家内のトウゴウミヨコ名義の口座があり、昭和四七年七月から八月にかけて日本電装、山九運輸などの売買が行われておりますが、この資金はすべて先程述べた私の口座から出たりまたその口座にはいっていますので、私が海野に頼んで売買させたことに間違いありません、ただ何故家内名義にしたかはっきりした記憶はありませんが、おそらくすでに述べたような回数制限の関係から家内の名義を使った方がいいと言われて、そのようにしたのだと思います」(被告人の検察官に対する昭和四八年六月二一日付供述調書のうち一三枚のもの)旨の供述は措信することができず、被告人の「日本電装株が買われた時妻名義での取引であることを知らずに自己の普通預金の払戻請求書に押印したが、その後山九運輸株の買いについては右普通預金口座には右代金不足していたために、陽において会社から借入れて支払ったことを八月中旬ころ知り、同人に右取引を整理するように指示し、その際一旦取引が行われてしまった以上、妻の取引として認めてやるより仕方がないものと考え、九六万八、七六〇円の利益が出た時点において妻の意向を聞いたところ、ミラベルに送って欲しい旨の依頼があったので、八月二二日にミラベルに一〇〇万円にして送金したが、ミラベルの経理担当者が誤解して自分よりの借入れ金として処理されるようになった」(被告人の当公判廷における供述及び弁護人の被告人に対する尋問調書第一冊)旨の弁解は、右夫婦間における問題であることを考慮すれば、あながち不合理だとして排斤することはできないから、むしろ右妻名義での山九運輸、日本電装株の売買は陽、海野らによって檀に名義を使用された妻の取引であるというべく被告人の取引であるとするには疑問があると言わなければならない。

第五保坂清名義での取引について

検察官は右名義での取引は被告人に帰属する旨主張し、被告人及び弁護人は会社の取引であると争うのでこの点について判断する。

一 保坂清の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月一三日付のうち二八枚のもの)、弁護人の被告人に対する尋問調書(第四冊)、上西明作成の捜査報告書、押収してある金銭出納帳一冊(昭和四九年押第二〇三号の14)、顧客勘定元帳(ホサカキヨシ二枚)一袋(同押号の22)によれば、新日本証券において保坂清名義で別紙新日本証券の売買回数調査表記載のとおりの殖産住宅株の取引がなされているが、右名義は被告人が保坂の了解を得ないで使用したものであり、右株売買の代金は三井銀行銀座支店の被告人の普通預金口座から新日本証券に送金されていることが認められ、右事実からすると右保坂名義での取引は被告人に帰属すると推認することもできないではない。

二 しかし、次のような理由から保坂名義での取引が被告人に帰属するとするには疑問がある。

証人海野幸雄(第七、第八、第九回)、同西原恭三(第一〇回)、同大石巖(第一二回)、同榎本辰男(第一五回)、同陽真也(第一八回)の公判調書中の供述部分、海野幸雄の検察官に対する供述調書(昭和四八年年六月一五日付)、被告人の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月一八日付)、弁護人の被告人に対する尋問調書(第四冊)によれば、殖産住宅は昭和四七年一〇月二日に株式を上場したが、上場日の寄付が二、五八〇円という高値であったにも拘らずその後は株価が連日のように下落の途を辿るに至ったこと、ところで殖産住宅株の公開前であった昭和四六年一月に大和証券から約二五〇万株の植産住宅株の名義書換の要求があり、調べたところ殖産住宅にとっては競争会社である日本電建の小佐野賢治が右殖産住宅株の買集めに関与していたことが判明したり、また戸栗亨が殖産興業からの殖産住宅株約八〇万株を担保に借受けた金の返済に小佐野賢治振出の額面三億三、〇〇〇万円の小切手を持参するといった事情もあり、戸栗が小佐野の手先として殖産株買集めを画策していると疑えることもあったため、被告人は右の如き株式公開後における株価下落により小佐野賢治らの暗躍を非常に心配するに至ったこと、そのため被告人は渋谷の進言もあって昭和四七年一〇月四日新日本証券の大石、海野が殖産住宅をおとずれた際新日本証券に対して殖産住宅株五〇万株位の買支えを依頼したが、当時株式上場後六ケ月間は右上場会社の役員は自社株を売買できないという話を聞いていたため、被告人の岳父にあたる保坂名義を使用するようにしたこと、そのため新日本証券の海野は榎本と連絡して右保坂清名義によって殖産住宅株を買っていったことが認められる。以上の事実からすれば保坂名義での殖産住宅株の売買は、株価下落に対する買支え目的のためのものであり、しかも株価の下落に対し、これを買い支えられることによって利益をうけるのは殖産住宅という会社であると解される反面、被告人が、個人的に買支えを行ったとするには、買支えがその性質上損失を覚悟の取引である点からしても、疑問があるものといわなければならない。そうとすれば、被告人は渋谷、榎本の進言もあり、しかも前記殖産住宅株売却による会社の簿外資金があったために、その資金を使用して自社株の買支えをはかったとする被告人の弁解もあながち不合理ということはできないのである。(弁護人の被告人に対する尋問調書第四冊)

この点についての渋谷の「被告人には買支えの話はしていない、昭和四八年二月の役員会の始まる前、被告人から自分は五〇万位買ったが、役員の皆さん方も買ったらどうかという話があった、他人名義での防戦買いの話は知らない」旨の証言(第四、第五回公判調書中の証人渋谷輝之の供述部分)及び榎本の「昭和四七年末か四八年初めころ渋谷から役員会で、被告人から被告人が会社の株を五〇万買ったといっているのを聞いたが、大丈夫かなということを聞かれたので、やはり東郷社長が株の値くずれを防ぐために、他人名義を借りて会社の株を五〇万株買っているということが判ったのです」(榎本辰男の検察官に対する昭和四八年六月一五日付供述調書)旨の検察官に対する供述は、渋谷の被告人とのかかわりを出来るだけ否定し自らの責任を回避しようとしていると窺える供述の内容及び証人榎本の第一五回公判調書中の供述部分並びに同人において上和田、高富名義のものとはちがって、保坂名義の借用証の作成に関与していること(榎本辰男の検察官に対する昭和四八年六月一五日付供述調書)に照らして措信することはできない。

第六上和田、高富名義での取引について

検察官は右名義での取引被告人に帰属する旨主張し、被告人及び弁護人はこの点を争うのでこの点について判断する。

一 上和田義彦の検察官に対する供述調書、高富味津雄の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月一三日付のうち一三枚のもの)、弁護人の被告人に対する尋問調書(第四冊)、上西明作成の捜査報告書、三井銀行銀座支店作成の捜査回答書(昭和四八年六月二日付)、押収してある金銭出納帳一冊(昭和四九年押第二〇三号の14)、顧客勘定元帳(カミワダヨシヒロ二枚)一袋(同押号の24)、によれば、新日本証券において、上和田義彦、高富味津雄名義で別紙新日本証券の売買回数調査表記載のとおりの取引がなされているが、右名義は被告人が両名に了解を得て名義を借りたものであり、右株の売買の代金は三井銀行銀座支店の被告人の普通預金口座及び前記上和田義彦名義の普通預金口座から新日本証券に送金され、売却代金も被告人の右普通預金口座に入金されていることが認められ、右事実からすると右上和田、高富名義での株の売買は被告人の取引であると推認することもできないではない。

二、しかし、次のような理由から右売買を被告人の取引であるとするには疑問がある。

1 上和田、高富名義の使用と課税問題について

検察官は右両名名義での取引は被告人が課税処分を免れるため、売買回数を分散するために用いたものである旨主張している。なるほど検察官に対して海野は「このようにして東郷社長関係の株の取引は一〇月ころからは東郷社長個人名義のもの、社長の奥さん名義のもの、保坂名義のもの三本立で行われるようになったのですが、一一月初旬ころ私は社長の取引回数が多くなったため、税金のことが心配になりました、当時社長個人名義の取引だけでも二八回にのぼり、奥さん名義の取引は五回であり、保坂名義の取引は一〇回になっていたのであります、そこで私は四七年一一月初旬ころ殖産住宅で東郷社長に会った際社長に対し、既にご承知と思いますが、株の取引が五〇回以上になると社長の場合には、一回の取引株数が多いので税金を払わなければならないことになりますが、既に社長名義の取引だけでも三〇回近くになっており、それに奥さん名義のものが五回と保坂名義のものが一〇回あります、うちでの取引だけでもこれだけあるのですから、他の証券会社を使って株の取引をやっておられる分もあるでしょうし、それを含めると五〇回を超えてしまいますような話をしたのでした、すると社長は困ったなあと言っておりましたが、どうすればよいかと私に尋ねますので、私は社長に若し社長がお金を誰かに貸したとして、その相手の人がその名義で株の取引をするのならよろしいんではないでしょうか、もっともその場合には本当に金を貸したんだという形式を整えておく必要がありますがという話をしました、私としては、社長が保坂清名義で殖産住宅の株を買い支えの為にどんどん買っていけば、直ぐに新日本証券扱い分だけでも五〇回を超してしまうことをおそれたのであります、保坂という名義にしてはおりますが、株を買い支える資金は東郷社長の預金口座から出ておりますし、税務署等に一寸調べられれば直ぐこの保坂名義の取引だということが判ってしまいます、そのようなことから、若し更に株の売買を続けるのならば、更に他人名義の口座を作り、その名義人に社長が株を売買する資金を貸したという形式を整えて、その名義人が実際に株の売買を行なったのだということにしなければならなかった為、私は社長に右に申したようなことを話したのでした、その結果四七年一一月から上和田義彦名義で取引することになったのでありました、この上和田名義を使って取引を行なってくれという指示は陽さんから私に対してありました、一一月初旬ころ私が殖産住宅で陽さんに会ったときに、陽さんが私に、社長の売買回数が増えるので、上和田義彦さんという名義で殖産住宅の株の買支えをやってくれ、この上和田という人は中曽根代議士の秘書官をしている人で、身分のある方だし、株の売買報告書等を上和田さんに送ってもらったりすると色々まずいことができるので、そのような書類は全部自分のところに送ってくれ、株を買う資金は東郷社長の方から出すからというような話を受けたのでありました、そこで私は上和田さん名義の売買をするのは名義を使うだけであって、実際は東郷社長の行なう売買だということを知ったのであります、この上和田名義の取引は一番最初の一一月六日の取引は株の買支えの為に植産住宅の株を買ったものでありましたが、二回目以後の取引は他の銘柄のものになりました、これは二回目の取引をした一一月中旬ころ陽さんから上和田口座に三億円の枠を作るから、その金で株の売買をして儲けてくれという話があり、一一月一五日に新日本証券の上和田口座に二億円が送金されてきたのでありました、その為私としては儲かりそうな銘柄の株がでた場合には、この上和田名義でその株を買うという予定をし、その旨陽さんに連絡して了承をうけて株の売買を行ったのであります、その後正確な時期は判然としませんが、確か四七年一二月に入ってからだったと思いますが、陽さんから今後は上和田名義の口座はつかわないでもらいたいという話がありました、そしてその代りに高富味津雄名義で取引をしてほしいということでありました、そのようなことから四七年一二月に入って高富名義の株の売買をするようになったのですが、上和田名義の口座についても、私は陽さんに折角作った口座だから、今年一杯までこの口座を使わせてもらいたい、その代り年内でこれはやめますという話をして、四七年一二月下旬ころまでこの名義での取引をさせてもらいました」(海野幸雄の検察官に対する昭和四八年六月一五日付供述調書)、「四七年一〇月三一日のことで、私が殖産住宅に顔を出し、東郷社長にお会いした際に東郷社長は私に、実は自分は中曽根大臣とは古くからの知り合いなのだが、中曽根さんから五億円から一〇億円位のお金を預っている、その金を増やしたいから、それで株を買って儲けてもらうことにしたいと思っているというような話をしたことがあったのでした、ところでそれから間もなく一一月初旬ころ私が再度殖産住宅に顔を出したとき、社長は私のあの金は使っちゃまずいから、別の金を送るから、それで株をやってくれと言ったのであります、そこで私は社長が最初私に話した中曽根議員の金を運用するという話はなくなったものと考えており、社長の資金で社長が株の売り買いをするものだと考えていたのであります、確か社長からあの金を使っちゃまずいから別の金を送ると言われた時だったと思いますが、私としてはもしそうであるとすれば、社長が更に株の売買をするということになりますので、社長の株の売買の回数が問題になると思い、社長に対して六月一五日付の供述調書でも申し上げておりますように、既に社長の取引だけでも三〇回近くになっており、その他に奥さん名義や保坂さん名義の取引もありますし、他の証券会社でも取引をやっておられるでしょうから、それらを含めると五〇回を超えてしまいますよという話をしたのでした、すると社長はどうすればよいかと尋ねたので、私は社長にもし社長がお金を誰かに貸し、その相手の人がその名義で株の取引をするのならよろしいんではないでしょうかという話をした訳なのです、すると社長は、中曽根秘書の上和田さんの名義の預金があるので、上和田さんの名前を使って、それで取引をやろうと言ったのでありました、そこで私はそのころ陽さんに会って上和田さん名義の預金があるそうですが、社長は上和田名義で株の取引をやりたいという意向のようですと話したところ、陽さんは私に、いや上和田さんの名義の預金に手をつける訳にはいかないんだよ、だから別の金で株の売買はやってもらうことになるが、株の売買の名義は上和田さんの名前でやってもらって結構だと言ったのであります、このようなことから、この上和田名義での株の取引は私としては実際に東郷社長が中曽根代議士から金を預っていたかどうか判りませんし、又上和田名義の預金が存在するのかどうか、もし存在したとしてもその預金は本当に上和田さんが預金したものなのか、或いは上和田という名前を使って預金したものかということなどについては、全く知らなかったのでありますが、いずれにせよ右に申したような経緯からして東郷社長が上和田名義で株の売買をするのは、その資金としては社長が出す資金で行うものだと理解しておりましたし、他人名義を使うのは、そうしないと取引回数が増えすぎてしまうからだと理解していたのであります、このようにして一一月六日から上和田名義の取引が始まりました、四七年一一月六日及び七日に分けて殖産住宅の株式五万株を買っておりますが、この取引は二日にまたがっており、注文伝票は四本に分れておりますが、注文としては一回の注文だったのです、この取引は上和田名義で行う取引の最初のものでありましたが、この日陽さんから私に電話で連絡があり、上和田義彦名義で殖産住宅の株を買支えの為に買ってはどうかという連絡がありましたので、私がそれでは五万株ほど買ってみましょうかと話をし、その結果陽さんからの買付委託の注文をうけて買っていったもので、一一月六日だけでは買切れなかった為、翌日にもかかって五万株を買ったのでありました、私はこの上和田名義でも殖産の株をどんどんと買っていくものと考えておりました、ところが最初の五万株を買った後、私は陽さんに上和田名義で殖産株をもっと買っていきましょうかと連絡をとったところ、陽さんは、いや上和田さんの名義で殖産株を買いつづけるのはまずい、だから殖産株はやめてそれ以外の銘柄のものを買ってくれ、資金は二億円程度送金するからと言ったのであります、なぜ上和田名義で殖産株を買い続けるのがまずいのか私にはわかりませんでしたが、私は詳しく聞くのも悪いだろうと思ってそれ以上は聞かず陽さんの指示に従ったのです、丁度当時は大型株が沸いているときでありましたので、私は陽さんにその旨を話し、大型株をやってみたらどうか、然し大型株だから値段が急に大きく上がることはないと思うので一〇円位上がったら売るということでやってみたい、利ざやはあまり多くはないが、短期間でやれるし、大量に買えば採算は合うと思うという話をしたところ、陽さんは銘柄等は任せますと言ったのであります、然し私は任せるとは言われたものの、若し損をしたような場合に問題になりますので、株の売買をするにあたってはその都度陽さんに連絡をとり注文をもらうようにしていたのでした」(海野幸雄の検察官に対する昭和四八年六月二〇日付供述調書のうち二一枚のもの)、「四七年一二月初めころ私は陽さんから社長の意向だが、上和田さん名義で株の取引をするのは具合いが悪いということなので、今後は上和田名義での取引はやめてもらいたいという話がありました、私としては折角上和田名義で株の売買を始めるようになり、この名義の取引口座には株を買う資金として新日本証券が預っている残高もかなりのものがあり、又この口座によっての株の売買も軌道に乗ってきていたので、その旨を陽さんに話し、できるだけこの口座で取引することはやめるようにするが、折角うまい具合に動き出してきているので、せめて本年一杯まではこの口座で株の売買を続けてもらいたい、その代り本年中には一切やめるからという話をし、陽さんからもその旨の了解をうけたのでありました、然しいずれにせよ上和田名義の取引は近いうちにやめなければなりませんし、そうかといって東郷社長の意向は今後株の取引を一切やらないという訳ではなく、やはり株の取引で儲けたいという意向のように見受けられましたから、私は陽さんから右のような話があってから間もなくの四七年一二月上旬ころ殖産住宅に行って東郷社長に会った際に、社長に対して上和田さんの名義での株の売買はおやめになるそうですが、そうなると今後の株の取引は社長名義か保坂さん名義でやらなければならないことになり、回数が五〇回以上になってしまいますよ、ですから誰か名前を貸してくれる人がいませんかという話をしました。すると東郷社長はおれの高校時代の友人に頼めば名義を貸してくれる人はいくらでもいる、高富もそうだし、萩原も名前を貸してくれる筈だと言い、私の目の前で日本学術会議の事務局長をしているという高富さんのところに電話をかけました、そして電話で高富さんに自分が株の売買をやるのだが、回数が多くなってしまうと税金を払わなければならなくなるので、君の名義を使わせてくれないか、君の名義で株を売買をやりたいのだという話をしておりました、相手の高富さんがその電話でどのように答えたかは聞こえませんでしたが、社長の電話をしている様子から、高富さんは簡単に社長の申し入れを承諾したようでありました、そして社長は電話を切ってから私に、今高富に電話をして了承を受けたから、今後は高富の名義で株の売買をやってくれと言ったのであります、このようなことから高富名義での取引が始まった訳ですが、私は匁論右のような話は、更に詳しく陽さんとの間で煮詰めて実際の取引を始めることにしたのでした」(海野幸雄の検察官に対する昭和四八年六月二〇日付供述調書のうち一二枚のもの)旨、陽は「一〇月一〇日までのことです、ある日海野が会社にやってきて社長や私に対し、かなり東郷さんの取引回数がふえてきました、東郷民安の分だけですとまだ二〇回か三〇回にしかなっていませんが、もし家族名義の分も含めると五〇回に近づいています、この上取引を続けると家族名義の分が含められると危ないので他人名義のものを使わなければなりませんと言われ、社長や私はそれでは困るので誰にするかということになり、社長が上和田義彦、高富味津雄の名前がよかろうといいましたので、その後はその二人の名前を東郷民安の株の取引に使うということになりました、上和田義彦や高富味津雄の名前を借りることについては、社長から両氏に了解を取っておりますが、私が考えていたところでは、この二人の名前を使ったというのは、回数の問題からいうことと、更には両氏とも金に困っていた方なので儲かればそこからお前にやるよという話があったものと思っています」(陽真也の検察官に対する昭和四八年六月一三日付供述調書)、「保坂、高富、上和田名義の取引はいずれも社長の取引であり、右名義人で取引を行うということは、海野の指導で社長の名義だけで取引をしていると年間に回数が五〇回を超えてしまい、それでは株の取引によって生じた利益に税金がかけられることになるので、税金がかからないように他人名義を使ったものであります」(陽真也の検察官に対する昭和四八年六月一六日付供述調書)、「前にも申し上げたように一〇月二日の株式公開後一〇月一〇日までの間に、海野から東郷やその家族名義の株式取引が増えてきたので、税金対策上危険があるので誰か他の者の名前を使ったら良いだろうという話があり、社長から上和田義彦、高富味津雄の名前を使うように言われていたのですが、取引の回数については海野が非常に警戒しており、どの取引を誰の名義にするかということは海野の方で決めて来たことでありました、一一月一三日に上和田名義で東レを買っていますが、その代金一億一、〇七五万円を払うべきところ、私は一一月一四日に二億円を上和田口座から引き出し、新日本証券に振り込みました、これも海野から上和田名義で東レを五〇万株買ったらどうだと言って来たので、社長に聞くと買ってよいというので私は社長の口座から金を出さず、上和田の普通預金口座から金を出して支払いに当てました、一二月二日に高富名義で新日鉄を一〇〇万株買っています、社長の株の取引に高富名義を使うことは、一〇月二日から一〇日までの間に社長と海野の間で決めていましたが、実際に使うようになったのは一二月一二日からでした、この頃まだ大型株が盛んにはやされていた頃であり、海野からまた新日鉄を買った方がいいですよといわれ、社長にそれを報告したところ、それでは一〇〇万株買ってくれといわれたので買注文を出したのですが、海野からはもうそろそろ上和田の名前も使えないから高富の名前で取引をするということでありました」(陽真也の検察官に対する昭和四八年六月二一日付供述調書)旨いずれも右主張にそう供述をしているし、また被告人も「同年一一月にはいってまもなくですが、海野が社長室にやって来て、これ以上社長の名前で取引をすると税法上さしさわりがあるから、他の人の名前を使ってやった方がよいという話がありました、私は具体的な回数とか株数についてその時海野から説明を受けたかどうか記憶にありませんが、いずれにせよ株の売買取引については、その取引の回数や株の数量について税法上の制限があり、これを超えると株の売買に税金がかかるということはわかっていましたので、私の名義の取引をこれ以上続けると税金を払わなければならなくなるので、これから先は他人名義を使って株の売買取引をした方がいいというふうに海野の言葉を理解しました、それでこの頃直接上和田氏に会って了解をとったか、あるいは電話で了解をとったか忘れましたが、いずれにしても陽を通じて海野には上和田義彦名義で株の売買取引をしてもらいたい旨連絡してもらいました、こうして上和田名義による取引が始まったのですが、最初五万株だけ殖産住宅の株の買支えをやってもらいました、その後すぐ海野の方から他の銘柄の株の売買もやりたいので、その資金として二億円位なんとかならないかという話が陽の所にあり、私もこれを了承し、一一月一五日新日本証券に私の金を二億円送金させました、その後一一月末か一二月初め頃だと思いますが、また海野が社長室に訪ねてきて、株の売買をするのにあと二人位名前を出してくれませんかという依頼がありました、先程も甲しあげたように、私の株の売買取引の回数が税法上の制限に達したために、いろんな名義を使って取引し、その回数を分散させた方がよいということで、私にさらに二名位名前を出させ、その名義で株の売買取引を続けたいということだったので、私は海野のいる前で私の高校時代の友人である高富味津雄と萩原忠顕の二人に電話をしました」(被告人の検察官に対する昭和四八年六月一八日付供述調書)、「上和田義彦名義の口座についてですが、元帳の写ではカミワダヨシヒロ名義になっておりますが、この名義で株の売買取引をやるようになった経緯はすでにお話ししたとおり、税法上株の売買取引の回数や数量には制限があり、それを超えると株の売買による所得に税金がかかるため、海野から言われるままにこの上和田名義を使って取引をやったものであり、また高富味津雄口座についても同様の理由で海野から株の売買をするのにあと二人位名前を出してくれと言われ、高富に電話をかけて了解をとって彼の名前で売買取引をやらせたものであります」(被告人の検察官に対する昭和四八年六月二一日付供述調書のうち一三枚のもの)旨検察官に対して供述している。

しかし、右事実と被告人が捜査段階において前記五六万株、一二〇万株の売却による利益約二七億円(しかも被告人個人が上場の際売却した値付株の代金も含めれば約三〇億円に達する)が自己に帰属することを認めていたことからすれば(被告人の検察官に対する供述調書参照)、被告人は新日本証券の海野から株の取引の課税問題について種々説明があったのちも、さらに株式売買による利益を得るために他人名義まで使用して取引を続け一度調査されれば、すべて課税所得となって前記殖産住宅株の上場によって得た利益を殆んど税金にもっていかれるというような重大な危険をも省みずなおも他人名義をも用いて、あくことのないまでに株式売買をなしたとする被告人の行動は常識的に考えても理解し難いところであり、また後記被告人名義での殖産住宅の買いが昭和四七年一一月九日から一四日にかけてなされていることと課税問題による上和田ら名義の使用による殖産住宅株の買いが同年一一月六日から始まっていることとの関係を合理的に説明できないし、しかも前記妻美代子名義での株の取引において述べたとおり被告人はもともと株の取引は嫌いな方であったことからすると、前記海野、陽らの検察官に対する供述のうち上和田、高富の名義を用いたのが被告人の株式売買回数を分散するものであったとする点は措信できない。そうとすれば右上和田、高富名義での取引は課税問題では無関係であったと言わざるを得ない。

以上の事実からすれば、右のような事実を前提として「株の取引については必ず被告人の了解を得ていた」(陽真也の検察官に対する昭和四八年六月一三日付、同月一六日付各供述調書)旨の陽の検察官に対する供述には疑問を投げかけざるを得ない。

2 上和田、高富名義での取引回数及び取引形態の特異性

前記のとおり上和田、高富名義での株の取引は別紙売買回数調査表記載のとおりと認められるところ、上和田名義での殖産住宅株の買いを除いては、右取引は連日のようになされ、一回の取引株数も五〇万ないしは一〇〇万株であり、しかも一日に数銘柄の取引がなされた場合もあって一一月一三日から一二月二一日までの間に検察官主張の売買回数にして一、六五〇万株というのであって、右取引自体からして株についての素人がするような取引とはとうてい考えることはできない。また前記妻名義での取引について説明したとおり、被告人は株の取引についてはむしろ嫌いな方であったことを考え合わせれば、被告人個人が右取引をしたとするには重大な疑問が残るものといわなければならない。

3 大型株を取引するに至った理由について

大型株を取引するに至ったいきさつについて前記のとおり、検察官に対して海野は「上和田名義の取引は、一番最初の一一月六日の取引は株の買支えの為に殖産住宅の株を買ったものでありましたが、二回目以降の取引は他銘柄のものになりました、これは二回目の取引をした一一月中旬ころ、陽から、上和田口座に三億円位の枠を作るからその金で株の売買をして儲けてくれという話があり、一一月一五日に新日本証券の上和田口座に二億円送金されてきたのであります」(海野幸雄の検察官に対する昭和四八年六月一五日付供述調書)、「私はこの上和田名義でも殖産の株をどんどん買っていくものと考えておりました。ところが最初の五万株を買った後私から陽さんに上和田名義で殖産株をもっと買っていきましょうかと連絡をしたところ、陽さんはいや上和田さんの名義で殖産株を買いつづけるのはまずい、だから殖産株はやめてそれ以外の銘柄のものを買ってくれ、資金は二億円程度送金するからと言ったのであります、なぜ上和田名義で殖産株を買い続けるのがまずいのか、私にはわかりませんでした」(海野幸雄の検察官に対する昭和四八年六月二〇日付供述調書のうち二一枚のもの)旨、陽は、「一一月一三日に上和田名義で東レを買っていますが、その代金一億一、〇七五万円を払うべきところ、私は一一月一四に二億円を上和田口座から引き出し、新日本証券に振り込みました、これも海野から上和田名義で東レを五〇万株買ったらどうだと言ってきたので、社長に聞くと買ってよいというので、私は社長の口座から金を出さず、上和田の普通預金口座から金を出して支払いに当てました」(陽真也の検察官に対する昭和四八年六月二一日付供述調書)旨、被告人は「こうして上和田名義による取引が始まったのですが、最初五万株だけ殖産住宅の株の買支えをやってもらいました、その後すぐ海野の方から他の銘柄の株の売買もやりたいので、その資金として二億円位なんとかならないかという話が陽の所にあり、私もこれを了承し、一一月一五日に新日本証券に私の金を二億円送金させました」(被告人の検察官に対する昭和四八年六月一八日付供述調書)旨それぞれ供述している。

しかし海野が供述しているような、殖産住宅株を買いつづけるのはまずいとする理由は全証拠によっても認めることはできないし、また、右、陽被告人の供述によっても大型株の売買を始めるに至った理由について、前記1、2で述べた疑問を解消するに足る説明はなされていないのである(上和田預金の運用との関係については次に述べる)。

4 上和田預金の運用について

海野は第七回の公判において上和田名義の取引について「一一月初めころ被告人から中曽根代議士への予定の政治献金のようなものが五億円位ある、それを三井銀行銀座支店に上和田秘書官の名前で預金してあるので、その金を少し運用してくれという話があった、最初の殖産住宅株の買いは値上りする見込みのために買った」(第七回公判調書中の海野幸雄の供述部分)旨、上和田名義で取引をするに至った理由を説明している。しかし、第一八回公判調書中の証人陽真也の供述部分、被告人の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月一八日付)、弁護人の被告人に対する尋問調書(第四冊)、三井銀行銀座支店作成の捜査回答書(昭和四八年六月二日付)、上西明作成の捜査報告書、押収してある金銭出納帳一冊(昭和四九年押第二〇三号の14)によれば、前記のとおり、被告人は中曽根の秘書上和田義彦名義で五億円の預金をしていたが、その後陽が誤って右上和田の預金口座から一一月一〇日に一億一、二七九万四、四〇〇円、同月一四日に二億円をそれぞれ引き出して新日本証券の上和田口座に送金したことを発見するや、直ちに、同月一六日には右引出額と同額を被告人の三井銀行銀座支店の普通預金口座から払出して右上和田名義の預金口座に送金して上和田名義の預金を五億円としてもとどおりにしたことが認められるのであって、そのように上和田名義の預金口座について厳格に考えていた被告人が右上和田名義の預金を自由に処分運用することができるものとは考えていなかったのであり、ましてや右資金で株の売買(当然損をすることも予想される)をしようとする意図を有していたということはできないし、また押収してある顧客勘定元帳(ホサカキヨシ二枚)一袋(昭和四九年押第二〇三号の22)によれば前記保坂名義で昭和四七年一一月一七日に殖産住宅株が三万株買われていることが認められ、しかも前記のとおり保坂名義での同年一〇月五日から同年一一月一七日までの殖産住宅株の取引は殖産住宅株の買支えであることからすると、上和田名義でなした同年一一月六日の殖産住宅株の買いが値上り見込みであったとはとうてい考えられないのであって右海野の証言は自らの責任を回避しようとする態度を如実に示しているものといわなければならない。

5 保坂名義での取引との相異について

押収してある顧客勘定元帳(ホサカキヨシ二枚)一袋(昭和四九年押第二〇三号の22)、同カミワダヨシヒコ二枚)一袋(押号の23)、同(カタトミミツオ二枚)一袋(同押号の24)によれば、保坂名義での取引についての代金決済は数回の取引後にその代金が送金されているのに対して、上和田、高富名義での取引については、上和田名義での最初の殖産住宅株の買いを除いては、億単位のお金を同人ら名義の口座に送金し、その資金にもとづいての株の売買がなされていることが認められる。そうとすれば、保坂名義での株の取引については、すくなくとも代金送金の段階において取引株数などを把握することが可能であったけれども、上和田、高富名義での取引については(上和田名義での殖産住宅株の買いは除く)、予め送金された資金でもって転がし運用されているため、新日本証券の海野において無断で取引することも可能な状況にあったということもできる。

6 以上のように上和田、高富名義での株式の売買取引につき、それが、私法上の効果が誰に帰属するかは措くとしてもこの取引を被告人が認識した被告人個人の取引であるとするには疑問があり、また右事実からすれば被告人の「保坂名義のみならず、上和田、高富名義の取引についても、会社の簿外資金による殖産住宅株の買支えが行われているものと思っていた」(弁護人の被告人に対する尋問調書第四冊)旨の弁解をあながち不合理だと排斥することはできない。

三 上和田、高富名義での金銭消費貸借契約証書について

海野幸雄の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月一五日付)、陽真也の検察官に対する供述調書二通(昭和四八年六月一三日、同月一六日付)、上和田義彦の検察官に対する供述調書、高富味津雄の検察調書二通、押収してある封書入金銭消費貸借契約書(上和田義彦名義)一通(昭和四九年押第二〇三号の15)、同(同押号の16)によれば、昭和四八年五月ごろに至って被告人の三井銀行銀座支店の預金口座を東京地方検察庁において調べている旨を同支店の山崎から聞いた陽は、海野と相談のうえ、被告人の了解を得て上和田、高富名義での株の取引があたかも真実同人らの取引であるかの如く仮装するために、昭和四七年一一月一一日に被告人が上和田に対し四億一、二七九万四、四〇〇円を、同年同月一二日に被告人が高富に対し五億円をそれぞれ株式取引の資金として貸し付けた旨の各内容虚偽の金銭消費貸借契約書を作成したことが認められるけれども、右事実をもってしても前記疑問を解消することはできない。

なお、検察官は、陽は右高富を訪ねて右仮装の金銭消費貸借契約書を作り押印を求めた際、高富に対し、株の売買を五〇回以上やると税金を払わなければならない。東郷の名前で取引すると五〇回以上になってしまうのでまずいから高富さんの名前を貸して貫った旨申し向けている事実(前記高富の検察官に対する供述調書)から、上和田、高富名義の使用は被告人の株式売買回数を過少に分散する目的であったことは明らかであると主張するが、むしろ被告人を含めた陽らにおいて昭和四七年中に株式売買回数問題と課税の関係を知っていたならば右の如き仮装の金銭消費貸借契約書を早い段階において作っておくともいえるのであって、検察庁が被告の銀行関係を調査するに及んで、それを作成しようとしたのは、逆に、被告人らはそれ以前においては株式売買回数と課税の関係を承知していなかったとも推測されなくはないのである。

第七被告人名義での殖産住宅株の買受けについて

検察官は、被告人名義での右取引は被告人に帰属する旨主張し、被告人及び弁護人は会社の取引であると争とのでこの点について判断する。

押収してある顧客勘定元帳(東郷民安六枚)一袋(昭和四九年押第二〇三号の18)によれば、被告人名義で昭和四七年一一月九日から一四日までの間に殖産住宅株二〇万株が買われ、右代金が前記五六万株の売却代金から支払われていることが認められるが、前記認定のとおり五六万株の取引が被告人の取引であるとするには疑問があるし、また、証人海野は「右の取引は陽か榎本から保坂宛に振込んで金がもう少しで切れるという話があったし、依然殖産住宅株が下り続けたため急場しのぎで陽に連絡して買った」(第七、第八回公判調書中の証人海野幸雄の供述部分)旨証言しているが、前記のとおり保坂名義での殖産住宅株の買支えについては後に代金を送金するという形をとっていたのであるし、また当時被告人の普通預金口座には八億円位の残高があったことからすると(押収してある金銭出納帳一冊(同押号の14)とうてい措信できず、むしろ、海野が被告人に無断で右五六万株の売却代金を運用し被告人名義を用いて殖産住宅株の買支えをしたものというべきである(証人榎本辰男(第一五回)、同陽真也(第二一回)の各公判調書中の供述部分)。そうとすれば右取引が被告人に帰属するとすることはできない。

第八家族名義の殖産住宅株について

検察官は家族名義の殖産住宅株は被告人が配当収入に対する課税を免れるために名義変更をしたものにすぎず、右株式による配当及び売却益は被告人に帰属する旨主張し、被告人及び弁護人は右殖産住宅株は家族の所有であると争うのでこの点について判断する。

一 家族名義株発生の経路及び配当、売却代金の処理について

1 家族名義株の発生経路について

証人花田隊介の当公判廷における供述、弁護人の被告人に対する尋問調書(第一冊)、押収してある株主名簿二冊(昭和四九年押第二〇三号の46の1、2)、株主移動簿一冊(同押号の47)、株主台帳一袋(同押号の48)、株主配当金明細書一綴(同押号の57)によれば、被告人は、妻美代子名義の殖産住宅株については、昭和三八年三月一一日に東郷美代子から三、七五〇株、同年三九年三月一日に一、二〇〇株、同三九年三月一日に長野陽一から一、〇〇〇株、丸山捨吉から二、〇〇〇株、同四二年三月二〇日に被告人から八、〇〇〇株、同年五月二九日に一〇株それぞれ名義書換し、長男和民、次男昌和、長女恵美子名義の殖産住宅株については同四二年三月二日に被告人から各八、〇〇〇株、同四三年一一月には井林健太郎から和民に一、二六六株、昌和、恵美子に各一、〇〇〇株それぞれ名義書換し、いずれもその後無償増資、株式配当によって同四七年一〇月一日現在で美代子名義株は一四万九、五五八株、和民名義株は三万九、〇四二株、昌和、恵美子名銀株は各三万八、三〇八株にそれぞれ増加していることが認められる。

右事実によれば被告人が家族名義に名義書換したのは、美代子については一万二、九六〇株、和民については九、二六六株、昌和、恵美子については九、〇〇〇株にすぎず、そのほとんどはその後における無償増資、株式配当によるものということができる。

2 配当収入について

証人花田隊介の当公判廷における供述、弁護人の被告人に対する尋問調書(第一冊)、藤田俊夫作成の捜査報告書二通、三井銀行銀座支店作成の捜査関係事項回答書二通(昭和五一年五月三一日、六月八日付)によれば、昭和四一年以前の妻名義株に対する配当金の処理については明らかではなく、同四二年については家族名義株は三井銀行銀座支店の被告人の普通預金口座に入金されて、各人の預金とはなっていないが、同四三年については、配当金は美代子名義分は二三〇万二、九九〇円、子供名義分は各五四万七、四〇〇円であったが、これは一旦三井銀行銀座支店の各人の普通預金口座に入金されたのち、同年一一月一日に美代子名義で同支店に二三〇万円の定期預金を、子供名義で同銀行自由ケ丘支店に各五〇万円宛定期預金をそれぞれ設定し、同四四年から四七年までは三井銀行銀座支店の各家族名義で定期預金されていることが認められる。

右事実によれば、家族名義の配当金が被告人の預金と混同された時期はあったけれども、その後は、明確に分離して管理されているものということができる。

3 右家族名義株の売却代金について

証人花田隊介の当公判廷における供述、東郷美代子に関する株式委託注文伝票、社外受渡連絡表、受領証、東郷昌和に関する株式委託注文伝票、社外受渡連絡表、三井銀行自由ケ丘支店作成の証明書(昭和五〇年七月一五日付)、押収してある金銭出納帳一冊(昭和四九年押第二〇三号の14)、顧客勘定元帳(トウゴウミヨコ二枚)一袋(同押号の19)、同(トウゴウカズタミ一枚)一袋(同押号の20)、同(トウゴウミヨコ一枚)一袋(押号の21)によれば、昭和四七年一一月に右家族名義のうち美代子、和民分については全株、昌和分については三万八、〇〇〇株、恵美子分については三万七、四〇〇株が野村証券ないしは新日本証券を通じて売却され、その代金は各人名の三井銀行自由ケ丘支店の普通預金口座に入金された後、そのほとんどを定期預金にしていること、昭和四八年に入って残りの恵美子分九〇八株、昌和分三〇八株が売却され、右売却代金は三井銀行銀座支店の被告人の普通預金口座に入金されていることが認められる。

右事実によれば、家族名義株の売却代金のほとんどが各人名義の預金として管理されているものと言うべきである。

4 ところで、被告人による家族名義への殖産住宅株の名義書換について、これを贈与と認めるか否かは一般通常人間におけるものとはちがって、親が子に夫が妻に何らかの財産を贈与する原因は常に存在すると認めうるといえる同居の家族間においてなされているという特殊性を十分に考慮する必要があると解すべきところ(親子、夫婦間における贈与等においては外形的事実の変更があり、関係者において贈与であると主張するかぎりその通りの法律劾果を認めてよい場合が多いであろう)、右のような家族名義株の発生経路、配当金及び売却代金の入金処理状況からすれば、一部について被告人の資産と混同があった点はうかがうことができるけれども、おおむね、各人の資産を分離管理していたものとできるから、それぞれの時期において被被告人から各家族に対して贈与が行われたものと解することもあながち不合理だということはできない。そうすれば家族名義の殖産住宅株の真実の所有は被告人に帰属するとして、その配当金及びその売却収入を被告人の所得とするには疑問が残る。

二 検察官の主張に対する判断

1 配当収入に対する課税を免れる手段であるとの主張について

(一) 検察官昭和四二年ころ被告人が他の役員と相前後して殖産住宅株を家族名義にしたのは、配当所得に対する課税を免れるためであったのであり、そのため同年に名義変更するに際しても、額面で評価して贈与税を課せられない限度である八、〇〇〇株宛名義変更している旨主張するが、たとえ被告人が家族名義に名義書換をする動機が右のような事情に起因するとしても、それを契機として贈与をなすということは当然考えられるし、(他人間における場合とちがって、家族間においてはそういう場合のほうが多いものといえる)、右は法によって許容された範囲内の節税の一態様と解することもできるのであるから、右をもって脱税の手段にあたり贈与が認められないものということはできない。

(二) 検察官は、配当収入が名実ともに家族に帰属するものであれば、その収入金額からして被告人の確定申告に際し妻美代子についての配偶者控除をすることができないし、また子供三名についても昭和四三年分から扶養控除をすることが出来なかったのに、被告人の所得税確定申告において、妻美代子について昭和四四年から四六年まで、配偶者控除をしているし、また同四四年については子供三名につき扶養控除をなし、同四五年から四七年まで昌和、恵美子につき扶養控除をしている旨主張するが、被告人が配偶者控除と株式配当との関係について、それほど深い知識を有していたとは認められないことからすると、右事実をもって家族名義株を被告人の所有と速断することはできず、右主張は理由がない。

2 妻名義の三井銀行銀座支店の定期預金を被告人が前記二億七、〇〇〇万円を借り受けるのに際して担保に供したことについて、検察官は、右のように妻名義の預金を担保に入れたのは、被告人が、右預金を自己のものと認識していたことの証処である旨主張する。

証人花田隊介の当公判廷における供述、証人山崎博信(第二三、第二四回)、同陽真也(第二〇回)の各公判調書中の供述部分、弁護人の被告人に対する尋問調書(第一冊)、回議案写(発送日昭和四七年七月二四日付)、被告人作成名義の預金担保差入書写三通(昭和四七年七月二四日付)、被告人及び東郷美代子作成名義の預金担保差入証写、手形貸付元帳写によれば、被告人は三井銀行銀座支店から預金担保で二億七、〇〇〇万円を借入れることを予定していたところ、不在中の昭和四七年七月二四日陽らにおいて同支店の山崎と連絡をとって、被告人の定期預金とともに前記殖産住宅株の配当金による妻美代子名義の定期預金も担保に入れて二億七、〇〇〇万円の借入れ手続をなしたが、その後被告人は同月二七日に一、〇〇〇万円を支払って右美代子名義の定期預金を解除したことが認められる。以上のように被告人が二億七、〇〇〇万円を借受けた数日後に妻美代子名義の定期預金の担保を解除するために、一、〇〇〇万円を支払ったことからすると、このことについて合理的理由が認められない本件においては被告人が弁解しているように(弁護人の被告人に対する尋問調書第一冊)右定期預金は被告人に無断で担保に差入れたものといわざるを得ない。

この点について山崎は「妻美代子名義の定期預金を担保に入れることは被告人の意思に基づくものであったが、七月二七日になされた一、〇〇〇万円の内入弁済は、被告人から夫婦であっても担保に入れるのはまずいからという理由でなされたものである」(第二三回公判調書中の証人山崎博信の供述部分)旨証言しているが、右証言は担保提供につき被告人の事前の同意があったかはさて措き、被告人は家族名義の預金と、自己のものとは比較的厳密に区別して取扱っていたことの表われということができるのであって、検察官の右主張は理由がない。

第九高梨康司、和田某らからの殖産住宅株の買受について、

検察官は、右殖産住宅株の買受は被告人の取引である旨主張し、被告人及び弁護人は会社の取引であって被告人のものではないと争うのでこの点について判断する。

一 榎本辰男の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月三〇日付)、陽真也の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月二二日付)、上西明作成の捜査報告書、押収してある金銭出納帳一冊(昭和四九年押第二〇三号の14)によれば、榎本は、いわゆる総会屋である谷口経済研究所の者から殖産住宅株の買取りの申入れを受けた後に被告人に相談したうえ、昭和四七年一〇月下旬ころに高梨康司から五、〇〇〇株、一二月中旬ころには和田某から二万株(後記のとおり榎本において公開の際に己むを得ずに代金を支払った一万八、〇〇〇株を含む)をそれぞれ買受けることとなって、右代金は三井銀行銀座支店の被告人の普通預金口座から支払われ、右株券については榎本から陽に渡されたことが認められる。右事実からすれば右二万五、〇〇〇株は被告人が取得したものと推認することもできないではない。

二 第一四回公判調書中の証人榎本辰男の供述部分、同人の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月三〇日付)被告人の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月二六日付)、によれば、右高梨康司については、昭和四七年一〇月二一日ころ総会屋である谷口経済研究所の石黒から榎本に対して「殖産住宅株五、〇〇〇株をもっている人がいて、その人は寄付の一番高い値段で買ってしまったのだが、お宅の会社は、その後ずっと値下りしているので、お宅の方で一番高い時の値段で買取ってもらいたい」旨の申入れがあったために、同人は渋谷に相談したところ、被告人のところへ話をもって行くように指示され、その旨被告人に伝えた結果、一株二、六八〇円で買受けることになったこと、同年一二月中旬ころ谷口経済研究所の和田某なる者から榎本は「公開の際引受けた二、〇〇〇株について前に高梨康司から二、六八〇円で買い取って貫っているのと同様に買取って貫いたい」旨の依頼を受けたが、その際榎本は右和田と相談して殖産住宅株公開の際谷口経済の人からの依頼により己むを得ず代金を立替支払することとなっていた一万八、〇〇〇株も併せ処分しようと考え、渋谷の指示をあおいだ後に、被告人には右一万八、〇〇〇株の売却の経緯は秘したまま、被告人に対し、「また総会屋から二万株程買戻してくれという話がでておりますが、谷口さんを通すと株の代金以外にも金がかかるのでどうしますか」と甲し向けた結果右二万株についても高梨からの買取り値段と同額で買受けることになったこと、昭和四八年三月末頃になって右会計二万五、〇〇〇株の名義を榎本の名前に名義変更したことが認められる。

右事実からすれば、被告人としては高梨らが殖産住宅の公開後の株価の値下りを原因として同社に対して株の買戻しを要求してきたものと認識していたものというべきであり、しかも、申し入れの相手が総会屋の谷口経済に所属するものであったのであるから、もし右申し入れを断った場合には上場後間もない殖産住宅としては、株主総会などにおいてどのような防害を受けることになるかもしれないと恐れたことは十分考えられるし、また、買取価格は上場の最高値段である一株二、七八〇円で、しかも当時は前記のとおり上場後株価は下落している状況にあったことからすると、右価格で買取れば損害を蒙むることは明らかであったと言うことができる。右のような事情の下において被告人が個人としての資格においてそれら株式を買取らねばならぬ理由はなくその後右買取りの株券は榎本が殖産住宅の株式次長として右株式を自己名義に名義変更していることも考え合わせれば、被告人が損失を覚悟のうえで右殖産住宅株二万五、〇〇〇株を買受けたとするには疑問があり、むしろ会社の行為としてこれを簿外資金をもって取得したものと認めうるものというべきである。

なお、右取得株の名義書換について、榎本は検察官に対して「これらの株券は社長が買戻したものでありますから、社長名義にするのが本当の方法ですが、当時は社長名義で二万七、〇〇〇株も名義書換をすることが色々な状況からみて適当ではなかった為、とりあえず自分の名義に書換えてもらいました。」旨(榎本辰男の検察官に対する昭和四八年六月三〇日付供述調書)しているが、その理由については必ずしも明らかではないが、仮にその理由が他の役員と被告人との持株数の比率の問題であるというものであるとしても、これら株式の取得が被告人が他の役員より優位にたつために他から株を買集めたというのであればいざしらず、総会屋から買戻しを要求されたため損失を覚悟のうえで買取ったというのであれば、十分申しひらきをなすことができるものというべきであるから、右供述を直ちに措信することはできない。

第一〇川原要作から買受けた殖産住宅株について

検察官は川原要作から昭和四七年三月一三日に買受けた殖産住宅株六四〇株の取引は被告人の行為であり、この株は昭和四六年一一月ころ同人から買取った一、五五四株と共に被告人に帰属する旨主張し、被告人及び弁護人は会社に帰属すると争うのでこの点について判断する。

川原要作の検察官に対する供述調書、被告人の検察官に対する供述調書(昭和四八年六月二八日付)、上西明作成の捜査報告書、押収してある金銭出納帳一冊(昭和四九年押第二〇三号の14)によれば、川原要作は、もと殖産住宅の社員であり、その後は被告人の妻の経営する飲食店で働く者であるが、昭和四六年一一月ころ自己の借金の返済に窮して、被告人に殖産住宅株一、五五四株の買取りを依頼したために被告人がこれを買取り右代金のうち三〇万円は被告人に対する借金として返済されたこと、同四七年三月一三日にも再び生活費にあてるために前と同様に殖産住宅株六四〇株の買取方を被告人に依頼したために被告人がこれを買取り、右代金五六万六、八八〇円は三井銀行銀座支店の被告人の普通預金口座から支払われていることが認められるのであって、右の事実からすれば、川原要作から二回にわたって買取った殖産住宅株はいずれも被告人の個人としての行為であり、その株も被告人に帰属するものと言うべきである。この点について被告人は「当時戸栗、竹内らの社員、工事人への株買集めの激しい時でしたので、彼等の手に渡らないように会社が買取った」(弁護人の被告人に対する尋問調書第四冊)旨弁解しているが、前記認定の如く被告人と川原との個人的事情により買取られたものと認められるから被告人の右弁解を措信することはできない。

第一一渡辺光市郎ほか二名に対する配当金について

検察官は渡辺光市郎、松井興太郎、猪熊一彦名義による殖産住宅株合計四、八五九株は被告人所有のものであり、同株式に対する昭和四七年三月期における配当金合計一二万一、四七五円は被告人に帰属する旨主張し、被告人及び弁護人は右株式はいずれも会社所有のものであると争うので、この点について判断する。

第一四回公判調書中の証人榎本辰男の供述部分、同人の検察官に対する供述調書(昭和四八年七月二日付のうち九枚のもの)、押収してある金銭出納帳一冊(昭和四九年押第二〇三号の14)、株式移動簿一冊(同押号の47)によれば、榎本は昭和四六年九月ころいろゆる総会屋と称されている金子一郎から丸山商事名義の殖産住宅株一、三一八株の買取りを求められたので、会社の株が総会屋に流れ株主総会が混乱することをおそれて、被告人に相談して、これを買受けたものであること、その後右株を手放した人を調べたところ、荒川弘とわかり、同人がまだ殖産住宅株を一、〇〇〇株所有していることが判明したので、右株も総会屋に流れることを防止するために、買受けることとし、これら株の買取代金は三井銀行銀座支店の被告人の普通預金口座から支払われたが、その後榎本において右株を前記川原要作から買取った殖産住宅株二、一九四株とともに榎本の長男晴一の名義書換をし保管していたが、榎本は扶養手当などの関係から、同年四七年年三月三一日に右金子、荒井から買取った株に対する無償交付株三四七株を含めた合計四、八五九株についての株主名義を松井興太郎、渡辺光市郎名義に各一、五〇〇株、猪熊一彦名義に一、八五九株をそれぞれ名義変更したこと、右三名による名義株に対する昭和四七年三月期の配当金は被告人の右普通預金口座に入金されていることが認められる。

ところで右のような金子一郎、荒川弘から右殖産住宅株を買受けるに至った経緯及びそれら株式名義の変遷をみるとき右株式取得代金の出所が被告人の前記普通預金口座であり、配当金が同口座に入れられている点を考慮しても、右金子、荒井からの株式を被告人が個人の資格で買取ったとするには疑問があり、被告人の「自分は会社に代って買受資金を出したにすぎない」(弁護人の被告人に対する尋問調書第四冊)旨の弁解をあながち不合理だとして排斤することはできない。

この点について榎本は検察官に対して「このようにして取得した合計二、三一八株は社長の名義にするべきところだったのですが、他の専務取締役との持株の割合が変ったことが表に出るとまずいので、この株の名義は一まず私の息子である榎本晴一名義にしておきました」旨供述(榎本辰男の検察官に対する昭和四八年七月二日付供述調書のうち、九枚のもの)しているが、前記高梨康司らからの殖産住宅株の買受けの項において述べたように、その説明理由を肯首することはできず、この供述は措信できない。

ところで、渡辺、松井、猪熊の名義による殖産住宅株合計四、八五九株のうち川原要作から買取った二、一九四株は前記第一〇において述べたとおり、被告人の所有に属するものと認められるが、被告人は、その株の処理を榎本にゆだねていたものということができるところ、被告人は検察官に対して「この川原から入手した株は榎本が私のために気をきかせて、最初自分の息子の名義にしておいたのです、その後川原から入手した株に私が昭和四五、六年に家内の姻戚である井林健太郎という人から一、〇〇〇株を一〇〇万円で買受けたのも加えて、榎本が松井興太郎、渡辺光市郎、猪熊一彦の三名名義を借りて名義変更しており、なぜ三人名義に分けたかはおそらく税金対策でやってくれたものと思います」(被告人の検察官に対する昭和四八年六月二八日付供述調書)旨、客観的事実とは異なる井林からの買取株式も含まれていった事実を前提として供述していることからすると、被告人としてはこれら株の帰属乃至取扱いについて正確な認識を欠き、あまり気にもとめていなかったものといろざるを得ない。

そうとすれば、前記渡辺ほか二名名義での株式配当金のうち川原要作から買取った二、一九四株分に相当する配当金五万四、八五〇円は被告人の配当所得に属するものと言うべきであるが、右所得について被告人が殊更にこれを所得税の確定申告から除外しようとする意図があったものとは認めがたく、これについて被告人にはほ脱の犯意がなかったものと解するのが相当である。

第一二戸栗亨から買受けた殖産住宅株一七一万株について

戸栗亨から昭和四八年二月に買受けた殖産住宅株一七一万株は、その買受主体が被告人であるのか、殖産住宅であるのかについて争いがあり、この争いは本件所得税法違反事件における直接の争点とはなっていないが、右株式の購入資金合計四四億一、一八〇万円を被告人が前述の三井銀行銀座支店から被告人個人名により借入れて支払っていること、右借入金の担保として前記の被告人が殖産住宅株買支えのために取得したと主張する株式も含めた多数の被告人固有の殖産住宅株等が担保に供されていることなどの事情があり、この一七一万株の買取りが会社の行為であるか、或いは被告人の個人的行為であるかは前記殖産住宅株五六万株、一〇〇万株及び二九万株(前記第一乃至第三)の取得についてもその購入資金が同銀行から被告人の個人名義で借り入れられていることから、その取引行為が被告人の個人的行為か、会社の行為かを判断する上において性格を同じくする面があること、及び、被告人が殖産住宅株の買支えのため被告人、保坂清、上和田義彦名義で購入したとする殖産住宅株の買取行為(前記第五乃至第七)を被告人の個人的行為か、会社の行為かを判断する上に若干の影響があると思料するのでこれについても、以下検討をする。

一 第二三、第二四回公判調書中の証人山崎博信の供述部分、手形貸付元帳写、上西明作成の捜査報告書、戸栗亨殿関係重要書類と題する袋在中書類一袋(昭和四九年押第二〇三号の12の8)、押収してある金銭出納帳一冊(同押号の14)によれば、昭和四八年二月に戸栗亨から殖産住宅株一七一万株が買取られたが、その代金は被告人が三井銀行銀座支店から四四億一、一八〇万円を借り受けて支払われ、右取引についての有価証券取引書などにも被告人を当事者として表示しているし、右一七一万株に対する昭和四八年三月期の配当も同支店の被告人の普通預金口座に入金されていることが認められ、右事実によれば右殖産住宅株の売買を被告人の取引であると推認することもできないではない。

二 しかし、次のような理由から右一七一万株の取引行為を被告人の取引とするには疑問がある。

証人渋谷輝之(第四回)、同西原恭三(第一〇回)、同榎本辰男(第一六回)、同西端勝美、同加藤克也(第二四回)、同山崎博信(第二三、第二四回)の各公判調書中の供述部分、大森康彦の検察官に対する供述調書、弁護人の被告人に対する尋問調書(第六冊)によれば、殖産住宅株は昭和四七年一〇月二日株式公開がなされたが、その後株価は下落の一途を辿ったため、被告人は殖産住宅の社長として、会社の社会的信用上株式の下落傾向を憂慮し、これが対策について主幹事会社である野村証券に相談をもちかけたところ、同社の大森部長から「いくら値下りを防いで株価を上げても戸栗亨が持株を売りに出て来れば、彼にもうけさせるだけで株価は下ってしまうから野村としては積極的に動きにくい、戸栗の持っている株を、お宅で手に入れて安定株主化するなど、殖産住宅としてなんとかしてほしい」旨の返答であったこと、そのため殖産住宅の役員会では何回も株価下落対策の話題が出されたこと、右戸栗保有の殖産住宅株を買取るための下交渉は渋谷が行うこととなり、同四八年一月一七日に「のぶ中川」において被告人は渋谷とともに戸栗と始めて話合いに入ったこと、二月に入って右殖産住宅株を買い入れることとなったが、その代金の支払いについて殖産住宅の加藤財務部長が関与し、しかもその際同人は送金名義を殖産住宅と記載しているし、また右殖産住宅株を前記三井銀行銀座支店からの借入金の担保差入手続をもなしていること、右戸栗からの買取交渉時の上場株価は二、一〇〇円前後であったのにかかわらず、戸栗との交渉による買取値段は上場日の寄付値である二、五八〇円と決められたことが認められる。

右事実によれば、戸栗亨が所有する殖産住宅株を買取るに至った理由は上場後の殖産住宅の株価の下落を防ぐためのものであって、本来会社の責任においてなされるべきものであると考えられ、まして右殖産住宅株を一株の時価二、一〇〇円のものを二、五八〇円で一七一万株も買取るというのであるからこの買取によって大雑把な計算でも八億円余の損失であることが明らかであるのに、それを知りながら被告人が個人としてこれを買受けたとすることは常識的に考えても理解し難いことであるし、また右交渉には渋谷が関与し、代金の支払いなどについて財務部長が処理していることからすると、被告人の「常務会の決議によって会社が買受けたものである」(弁護人の被告人に対する尋問調書第六冊)旨の弁解をそのとおりの明確な常務会決議がなされているとは認め難いけれども、被告人が社長としての立場から会社のためになした会社の買取行為であったと認めうるものというべきである。

なお、被告人の検察官に対する「反対派の連中や戸栗の持株を合わせるとすでに六〇〇万株を超えていることがわかり、これだけあれば累積投票権の発生基盤にもなるし、社員株や指定建設業者に呼びかけて委任状をとり、私を追い出すことも可能になりますので、なんとしてでも戸栗の一七一万株を買取ってしまいたいと考えたのです。」(被告人の検察官に対する昭和四八年六月二六日付供述調書)旨の供述の如く被告人の検察官に対する供述が、すべて、取調べに迎合して個人の行為であると供述したとの弁解及び前記の判断に照らして措信できないというべきである。

これらは要するに、被告人は、会社の取引行為においても、三井銀行銀座支店の被告人の普通預金口座をとおして多額の借入金を個人名義でなしていたし、被告人の固有の株券などもそれに担保提供しているという情況にあったことに外ならず、これらは被告人において公私混同を招くような軽卒な行動であったと言いうるのは別として、単に殖産住宅株等の買取り資金が被告人個人の名で借り入れられたものか或いは被告人の三井銀行銀座支店の普通預金口座から出金されたか、はた又それら株式等の売却代金が右普通預金口座に入金されているかといった取引における外形の如何は、取引の帰属主体を判断する上で、少なくとも、被告人個人と殖産住宅との関係においては、重要な決め手とはなりえない。

(結語)

以上のとおりであるから検察官が本件公訴事実において被告人のほ脱所得として主張するもののうち、

(一)  有価証券の譲渡による雑所得については、検察官、弁護人において争いのある株式の売買取引は前記「争いのある点に対する判断」第一乃至第一〇において判示したとおり、検察官において被告人個人の株式の売買行為であるとする行為のうち、川原要作からの買取行為一回分を除くその余の売買行為について、これを被告人個人の売買行為であると認定するにつき、いまだ合理的疑いを容れない程度までに証明されたとはいえない。

すると被告人の昭和四七年中になした株式の売買回数は検察官の主張の方法によっても、その売買回数は合計三四回(仮に堀場名義の一万株の売却を一回に数えたとしても)となるというべく、他に被告人の有価証券の売買が「営利を目的とした継続的行為と認められる取引」と認めうる十分の証拠もない以上、検察官が有価証券の取引による売買益であるとする所得税法九条一項一一号イ、同法施行令二六条により非課税所得というほかはないし、また、

(二)  配当所得については前に「争いのある点に対する判断」第八、第一〇及び第一一において判示したとおり、その配当所得の原因たる殖産住宅株のうち川原要作から取得した二、一九四株の配当額五万四、八五〇円以外は被告人個人の配当所得とは認め難いのであり、右配当額五万四、八五〇円についても被告人が殊更にこの配当所得をほ脱しようとの認識を有していたと認めるに足る十分の証拠はない

のである。

従って、結局本件公訴事実については、犯罪の証明がないことに帰属するから刑事訴訟法三三六条後段を適用して被告人に無罪の言渡をすることとする。

よって注文のとおり判決する。

(裁判官 中村勲 裁判官 大谷正治 裁判長裁判官高田義文は、退官のため署名押印できない。裁判官 中村勲)

新日本証券(株)における売買回数調査表

<省略>

野村証券(株)における売買回数調査表

<省略>

大和証券(株)における売買回数調査表

<省略>

日興証券(株)における売買回数調査表

<省略>

相対売買の売買回数調査表

<省略>

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